3ヨハネ 1-14

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(2節)

この箇所は「三拍子の祝福」と呼ばれます。聖書の神は、私たちがたましいの救いを得るだけでなく、すべての点でも幸いを得、健康であることを願われているお方です。「シャローム」という単語には、健全、全体的という意味があります。ですから、イエス・キリストが約束された「平和」(シャローム)とは、単に争いがないということではなく、全人格的な祝福を意味します。この全人格的な祝福を「祈ります」とあるように、私たちは互いの祝福を祈り合う姿勢が大切です。

「神様、どうか愛する兄弟姉妹のたましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得させてください。経済的にも祝福してください。そして、健康でありますように。」

2ヨハネ 1-13

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(9節)

私たちの信仰の土台はいつも聖書である必要があります。行きすぎをして、聖書以外のものを読み込むということはとても危険なことです。聖書に書いてあることよりも大事な教えがあるというならば、それは、

「神様をないがしろにしている」(LB)

ことだと聖書は言います。

「聖書は、誤りなき神の言葉である」

と信じ、この教えのうちにとどまる人にこそ、

「御父も御子もおられます」(新共同訳)。

いつの時代も、聖書の教えと異なるものを聖書を利用して教える人たちがいます。ですから、私たちはいつも、バック・トゥー・ザ・バイブル、聖書に戻ることが大切です。その判断のためには聖書全体の流れを理解することが重要です。

1ヨハネ 5:1-21

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(5:11,12)

これほど明確な文章はないと思います。LBではこう訳しています。

「神の言われたこととは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったこと、そして、永遠のいのちが神の御子のうちにあるということです。そういうわけで、神の子を信じる人にはいのちがあり、信じない人にはいのちがないのです。」

ある人は「すべての道が神に通じる」と言います。ある人は「誠実であれば、神は受け入れてくださるはずだ」と言います。しかし、聖書は明確に、イエス・キリストを信じることなく永遠のいのちはないと言います。ですから私たちはイエス・キリストを明確に宣べ伝えていく必要があります。

1ヨハネ 4:7-21

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(4:7,8)

イエス様が私たちに与えた戒めは互いに愛し合うことです。私たちは自分の愛の欠如に心を痛めますが、その愛の源は神だと聖書は言います。ですから、私たちが互いに愛し合うことを選ぶとき、神ご自身が私たちを助けてくださいます。

「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(12節新改訳二〇一七)

もし、神が私たちのうちにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はありません。

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(4節)

「キリストと共に歩む時、私たちの愛は成長し、いっそう完全なものとなっていきます。」(17節LB)

1ヨハネ 3:11-4:6

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(3:16)

キリストはただ口先で私たちを「愛している」と言われたのではなく、実際に、私たちの罪のために十字架で死なれることを通して愛を明らかにされました。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8新改訳二〇一七)

愛は行動を伴います。聖書は私たちに同じように口先だけでなく、行動に現すように勧めています。神様に導かれるならば、犠牲を払うことから逃げることがないようにと、主のあわれみと助けを求めます。

たまにはこんな日も

2018年も残すところあと一か月。
何を書こうかとパソコンを前にして座ってみたものの何も浮かんできません。どうして何も浮かんでこないかと考えてみると、恐らく明日の食事作り(補講アルファのため)が気になって考えがまとまらないということに気がつきました。本当は豚汁とおにぎりにしようと思っていたのですが、イタリアンが食べたいという約一名の希望によりこれからミートソースづくりをしなければならないのです。そんなに難しい作業ではないのですがグルテンメニューなのでそうすると自分が食べるものを別で作らないといけないし、、、等々考え始めてちょっと気が重くなってしまっているのです。まあ、たまにはこんな日もあります。ゴロゴロしている猫たちを見ながら、こころは若干逃避気味。そんなこんなを徒然なるままに書いているとかなり書き進められてしまいました。兼好さんもこんな気持ちだったのかな。さて、そろそろ作業に取り掛かります。アドベント一週目は、イエス様のご降誕を覚えつつミートソースパスタにします。 (小山晶子牧師婦人)

1ヨハネ 2:28-3:10

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(3:8)

イエス・キリストを信じる者は、「今すでに」神の子どもです。しかし、後の状態は「まだ」明らかにされていません。聖書の中に出てくる「神の国」、「終わり」(終末論)を理解するためには、この「今すでに」と「まだ」という理解が重要です。「神の国」(統治)はイエス様が来られたことで「今すでに」私たちのただ中に始まっています。しかし、完全な「神の国」はイエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。イエス様の十字架の死と復活、聖霊の到来によって終わりは「今すでに」始まっています。私たちは「終わり」のはじまりと「終わり」の完成の間に生きています。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ヨハネ 2:1-27

「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」(2:14)

キリストを信じる者は、戦いの中にいます。戦いは、私たちの思考に関する戦いであり、私たちの人生を決定づける戦いです。神は、私たちが神との関係を築き、祝福された人生を歩むことができるように、私たちの人生を治めたいと願われています。しかし、サタンは、私たちを滅ぼすことができるように嘘を用いて私たちの人生を支配しようとします。この戦いに勝つ方法は、神のみことばのうちにとどまることだと聖書は言います。ダビデもこう言っています。

「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119:11新改訳二〇一七)

神のみことばを心に蓄えることがサタンの嘘にだまされないためにも必要です。