ヨブ記 19:1-21:34

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(19:25)

ヨブは苦しみの中、驚くような預言的ことばを発します。

「だが、私は知っている。私を救うお方は生きておられ、ついには地上に降り立つのだ。この肉体が朽ちはてたのち、私は新しい肉体で神を見る。」(25,26節LB)

旧約聖書には死後の世界に関する言及はありません。しかし、この箇所で明らかにヨブは死後の希望を語っています。ヨブは、この世がすべてではないこと、この世のからだがすべてではないことを理解します。ヨブは、死を越えたところに、永遠のからだに復活する日を確信したのです。私たちは、私たちを贖う方、キリストが死の力を打ち破ってよみがえられ、今、生きておられることを知っています。私たちは、ヨブよりももっと確信をもって、希望を宣言することができます。

「私たちを贖う方、キリストは今生きておられる!」

ヨブ記 15:1-18:21

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(16:19)

ヨブは、家族からも、友人からも理解されず、彼の唯一の希望は天にて自分をとりなしてくださる存在でした。

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(21節)

ヨブはその方がよく分かりませんでした。しかし、私たちは今、その方を知っています。聖書は言います。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

四方八方ふさがっているように見えても天は開いています。私たちは天におられるこのお方に目を向けることができます。私たちはこのお方を知っています。私たちと同じように苦難を体験された神の御子は、私たちの思いを理解し、今日もとりなしてくださっています。

ヨブ記 11:1-14:22

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」(13:9)

ヨブの友人たちの問題は、自分を棚上げにして神の代弁者のようにヨブを有罪だと責めていたことでした。そんな友人たちに対してヨブは言います。

「神は一度だって、あなたがたの言っているようなことを口になさらないのに、それでもなお、神の代弁者を気取るつもりか。」(7節LB)

そしてヨブは、神を恐れていたら、こんなことができるはずがないと言います。私たちは、神の代弁者のように誰かを責める思いがあるならば、このヨブの言葉を心に留める必要があります。「神があなたがたを調べても、大丈夫か。」神は私たちに神を弁護して欲しいと願っているわけではありません。神が被告人で私たちの弁護を必要としているのではありません。神が願われているのは、私たちが弁護者になることではなく、まことの弁護者、イエス・キリストを指し示すことです。

ヨブ記 8:1-10:22

「私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。」(10:20)

苦しみの中にあるヨブの叫びに、共感できるものがたくさんあると思います。ヨブは、わずかでも明るくなるために、神に「かまわないでください」と言いました。ヨブが心底そう思ったかはわかりませんが、そう言いたくなった気持ちは分かります。問題の中で、人はどうして神から離れようとしてしまうのでしょうか?人は誰もが神を必要としています。それなのに何が私たちを神から遠ざけてしまうのでしょうか。「結局、自分の力では神に認められない」と悟る時、「それならもういっそ、かまわないで欲しい」と開き直ってしまうからでしょうか。私たちはヨブとは違い、イエス・キリストの十字架を見上げることができます。キリストの十字架は、キリストを信じる者はキリストの御業によって、神に認められることを指し示します。復活の日曜日は来ます。神の介入を求めましょう。

藤藪庸一先生のこと

みなさんは和歌山県白浜町にある三段壁をご存知ですか?観光名所でもあると同時に自殺の名所でもあります。その三段壁には白浜バプテスト教会が設置した「いのちの電話」の番号が書いてある看板があり、現在は私の友人でもあり先輩でもある藤藪先生ご夫妻がこの働きに従事しておられます。NHKプロフェッショナルでも取り上げられたのでご存知の方もいるかもしれません。牧会と子育てでも大変なのに、三段壁のパトロールやいつかかってくるかわからない「いのちの電話」への応対、保護した方々との共同生活。折り紙が得意で、やさしかった神学校時代の藤藪先生からは想像もつかない表情に、働きを継続する厳しさと覚悟を感じ、襟を正される思いです。今月19日よりポレポレ東中野でドキュメンタリー映画が公開されています。「あなたを諦めない」という本も出版されました。きれいごとではない、ありのままの現実。ときに傷つきながらも前に進んでいく藤藪先生ご夫妻の姿は、まるで十字架の道を踏みしめるイエス様の御跡を辿っているようです。(小山晶子牧師婦人)

ヨブ記 4:1-7:21

「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(5:27)

ヨブの友人エリファズの知恵、それがヨブを苦しめました。親しい人からの

「あなたのためを思えばこそ忠告するのだ。」(LB)

という言葉がどれだけ人を苦しめてきたことでしょうか。人は生きていく中で、自分なりの悟り、哲学を身につけます。問題は、それらの知恵がかえって人を苦しめることがあるということです。エリファズの知恵に対して、ヨブは答えます。

「気落ちした友には、親切にすべきではないか。それなのに、あなたは神を少しも恐れず、私を責め立てるばかりだ。」(6:14LB)

聖書は私たちに忠告します。

「自分の知恵を過信してはいけません。」(箴言3:7LB)

私たちは自分の知恵に過信せず、謙遜に、日々、神のみことばに耳を傾ける必要があります。

「わたしの思いが、あなたのみこころにかなうものとなりますように。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨブ記 1:1-3:26

「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(2:10)

ヨブ記のテーマは

「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」

だけではありません。

「人が正しく生きようとする動機は何か」

ということです。サタンはご利益があるから人は正しく生きようとすると挑戦します。財産も健康も失ったヨブに、ヨブの妻は言います。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)

しかしヨブは、妻をいさめ、罪を犯すようなことを口にしませんでした。彼の正しくあろうとした動機がご利益ではなかったからです。自分の人生の中で何か悪い事が起きた時、私たちは神を被告席に立たせ、いろいろと責めたてます。しかし、ヨブは違いました。すべてを神の御手にゆだね、神の主権を認めたのです。神が創造主であり主権者で、私たち人間は被造物であり、受け手側であることを認めたのです。神は神、人は人と。

創世記 49:1-50:26

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。』こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」(19‐21節)

ヨセフの兄弟たちは父の死後、彼らがヨセフにした悪のゆえに仕返しされるのではと恐れていました。しかし、ヨセフは兄弟たちを恨むどころか、神が悪を、良いことのための計らいとされた、神がマイナスをプラスにしてくださったと言いました。いつまでも恨みを持ち続け心を病むこともできます。ヨセフのように、いつも喜び、たえず祈り、すべてのことに感謝し、神がマイナスをプラスに変えてくださる世界を体験することもできます。私たちの神は、マイナスをプラスにしてくださる神です。

創世記 47:13-48:22

「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(48:15)

ヤコブは、ヨセフの子供たちを祝福する祈りの中で、

「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」

と神を呼び、祝福しました。詩篇23篇に、

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

と記されています。ヤコブは体験からも、神が羊飼いであるならば、乏しいことはないということを知っていたので、そのように祈ったのだと思われます。イエス・キリストは言われました。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエス様は文字通り私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。そして死を打ち破り、よみがえられました。今も生きておられます。今、イエス様は私たちの良い羊飼いとなって導いてくださいます。