ぱんぱん

いつもは土曜日に書くことの多いデイリーのコラムですが、今日は金曜日。あすはリラのコンサートが東京で行われるので一日早く書いています。昨日まで三日間御殿場で行われたユースキャンプに参加してきました。日曜日の礼拝時に、参加したメンバーがそれぞれ証をすることになっています。事故やけがもなく、全てが守られました。皆様のお祈りを心から感謝します! 私は中一になる春のキャンプでイエス様に出会いました。神様に愛されていることを小さいころから何度も聞いてきましたが、本当の意味で、ほんの少しですが実感できたのです。誰にも気づかれないような小さな出来事でしたが、私の人生にとっては、神様への生きた信仰となったこの瞬間が何よりも大きな出来事であったと思います。参加した子どもたちにとっても、そのようなかけがえのない時間であってほしいと心から祈っています。それにしても、年度末のせいかあわただしさに頭も心もぱんぱんです。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせて次の作業に向かいたいと思います。 (小山晶子牧師婦人)

民数記 29:12-31:24

「八日目にあなたがたはきよめの集会を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。」(29:35)

「どんな労役の仕事もしてはならない」という安息日を守る理由は、神を神とするためです。ヘブル人は、一日は夕から始まると考えます。私たちは眠り、神が働かれます。私たちが目覚める時、神は神の創造の働きに、私たちが参与していくように呼び出されます。私たちは信仰によって、それぞれの働きによって応答します。ですから、まず、すべては神の恵みから始まります。私たちは、私たちが造ったわけではない世界の中で目覚めます。夕、神は私たちの助けなしに創造的な一日を始められます。朝、神がはじめられた一日を楽しみ、分かち合うように、その働きに参与するように私たちを招きます。私たちが眠っている間に、神は素晴らしいことを行われています。私たちの理解をはるかに超えたことが行われています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 27:12-29:11

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」(29:1)

イスラエルの人たちにとって、荒野での生活を保つために、こなさなければならない多くの仕事がありました。しかしこの章では、聖なる会合を開くことと、仕事を休むことが命じられています。荒野での四〇年間、彼らを肉体的、精神的、霊的に守ったのは、彼らが終わることのない仕事を休んで、集まって主を礼拝する時間を大切にしたからです。現代人も様々な仕事をこなすために時間に追われています。主の日に普段の仕事から離れて、集まって神を礼拝することが、私たちを肉体的、精神的、霊的に守ってくれます。主の日の礼拝を大切にしましょう!

民数記 26:12-27:11

「しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」(26:64,65)

約束の地を目の前にして、神は再度、イスラエルの民の人口調査を命じられました。1章で行われた第一回目の調査の時に数えられた者は、ヨシュアとカレブ以外はいませんでした。その理由は、ヨシュアとカレブ以外は神に従うよりも、自分たちの意見を優先したからでした。(14章参照)信仰生活は選択の連続です。神を信頼することを選ぶか、自分たちの意見を優先させるか、私たちは選択しなければなりません。イスラエルの民は話し合いの結果、荒野をさまようことになりました。話し合うことより、神のみこころを求めて祈ることが大事です。

民数記 23:27-26:11

「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。」(25:11)

ピネハスは、イスラエルから主の燃える怒りを離れさせるために、悪事に目をつぶることなく、処刑しました。イエス様の時代のパリサイ人たちが模範としていたのは、このピネハスでした。イエス様に出会う前の使徒パウロも、イスラエルの国の罪が赦され、ローマ帝国から解放されるために、神の律法に違反していると考えられる人たちを、このピネハスを模範として次々に粛清していきました。ピネハスの行動は、確かにこの箇所では称賛されています。しかし、今、すべての罪はイエス・キリストの十字架によって赦されました。神が求められているのは粛清ではなく、イエス・キリストを信じることです。

民数記 22:21-23:26

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(23:19)

神と人間には大きな違いがあります。創造主と被造物と言う違い以外にも、今日の箇所では3つの違いが出てきます。まず、第一番目に

人は偽ることがあっても神は偽ることはありません。

第二番目に

人は罪を犯すので、悔いる必要がありますが、神は罪を犯すことはありませんので悔いることはありません

第三番目に

人は言ったことさえ実行できないところがありますが、神は約束されたことは必ず成し遂げられるお方です。

バラクは言いました。

「その神が、『祝福しなさい』とお命じになったのです。神の祝福を変えることはできません。」(20節LB)

詩篇133篇では、私たちが礼拝をするために共に集まるそのところにとこしえのいのち祝福が命じられると言います。

誰も変えることはできません。

民数記 21:4-22:20

「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」」(21:5)

荒野を旅する彼らに、毎朝天からマナが降ってきました。しかし、彼らは驚くような奇跡のマナを、「みじめな食物」と呼びました。榎本師はこう言います。

 

「いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。

あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代、そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのにみ言葉がとるに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。

そして求めることを怠るとき、私たちは何ものも受けることが出来なくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。(中略)

神に帰る以外に私たちの真の解決はない。」

民数記 19:1-21:3

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(20:8)

荒野を旅するイスラエルの民が水を求めたのは、今回で二度目でした。一度目は岩を打って水を出すように命じられ、モーセは従いました。しかし、今回は命じるだけでいいと言われたのに、モーセは従わずに、前回と同じように打ってしまいました。モーセはこの失敗で、約束の地に入ることが許されませんでした。指導者たちは格別厳しいさばきを受けることを心に留めるべきだと思います。(ヤコブ3:1)しかし、ここにはさらに大きな問題がありました。Ⅰコリント10章に、

「その岩とはキリストです。」

と解説されています。キリストは生ける水を私たちに与えるため、一度、十字架で打たれました。今は打たなくても口で告白すれば(ローマ10:10)生ける水は与えられます。モーセはそのことを象徴することに失敗しました。

「リュウグウ」に想う 

地球から32億キロメートル離れた小惑星「リュウグウ」。ここに日本のJAXAが「はやぶさ2」という探査機を送り、その岩石を採取することに成功したことは皆さんの記憶に新しいと思います。ちなみに時速100キロメートルで走ると3625年かかる計算ですが、はやぶさ2はたった4年で到着したそうなのでいかに速いかということが分かります。採取した岩石は含水鉱物だったということなので宇宙での水の存在を裏付ける貴重な調査であることは間違いありません。でも、この地球の深部には海水の数倍から数十倍の量の含水鉱物があることを今回初めて知りました。創世記2章6節『ただ、水が地から湧き出て土地の前面をうるおしていた。』この箇所を読んで神様の偉大さに感動しています。自分のことだけ、目の前のことだけというようなミクロの視点で生きるのではなく、マクロ(大きな)視点で、つまり神様の視点であらゆる物事を見る癖をつけていきたいと思うのです。私たちの主は、とてもとてもとても偉大な全能の神様なのですから。  (小山晶子牧師婦人)

民数記 16:36-18:32

「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」(16:48)

大祭司はいかなる形であれ、死と関係するものに触れてはなりませんでした。ですから、大祭司アロンが「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」という意味は、身を挺して民を守ったということです。神の召命によるとは言え、本来は自分たちのリーダーシップを批判していた人たちが神からの罰を受けていたのですから、当然の報いと思ってもおかしくない内容です。しかし、モーセとアロンは、そんな民のためにもいのちをかけてとりなしたというのです。聖書は、神は

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3:9)

と言います。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ。―だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!