民数記 1:1-2:9

「それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(1:45,46)

神はモーセにイスラエル男子の数を数えるように命じました。(それで、この書は「民数記」と呼ばれます。)六十万三千五百五十人いました。そのうちの二人、カレブとヨシュアだけが約束の地に入ることができました。残りの六十万三千五百四十八人は不信仰のゆえに荒野で死んでしまいました。民主主義が必ずしも正しいとは限りません。多数決が必ずしも機能するとは限りません。ヘブル書3章で、彼らが入れなかった理由は神に「従おうとしなかった」からだと言います。「文句を言い続けた」(LB)、「何度も何度も私の忍耐を試した」(MSG)。話し合うことよりも神のみこころを求めて祈り、神のみ言葉に従順することを優先すべきです。

レビ記 26:14-27:34

「しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」(26:41)

イスラエルの民が神との契約を破るのであるならば、外国に捕囚されると規定されています。この規定通り、神に背を向け、神との契約を破ったイスラエルの民は、捕囚されていきます。バビロンから帰還したイスラエルの民は、自分たちがペルシアの支配下にあることを認識し、自分たちの捕囚が終わっていないことを認識していました。イエス様の時代のイスラエルの民も、ローマ帝国の支配下にあり、捕囚状態にあることを認識していました。使徒パウロは、今日の箇所の約束を知っていたので、心からへりくだること、聖霊による心の割礼を訴えました。

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(ローマ2:29)

レビ記 25:1-26:13

「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」(25:10)

昨今、資本主義の行き詰まりが声高に言われています。日本の国の借金(債務)も一千兆円を超えていて、国民一人当たり八百万円ほどの借金を背負っていると言われます。このような借金の問題は日本だけの話ではなく、世界中で問題になっています。イスラエルの民に神が命じた対策はヨベルの年でした。五〇年ごとに借金帳消しの年を命じたのです。ヨベルの年が実際に実行されたかどうかに関しては議論があります。しかし、私たちは貧困の問題に関して無関心にならずに、祈りつつ、何かしら行動を起こす時が来ているのではないでしょうか。なぜなら、イエス・キリストがヨベルの年を宣言されたからです。(ルカ4:18,19参照)

レビ記 23:1-24:23

「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(23:42,43)

毎年イスラエルの民は、居心地の良い自分の家を離れ、なつめやしの葉で作られた小さな仮小屋で八日間過ごすことが求められました。仮小屋で過ごす不便な八日間、神がいかに自分のことを気にかけておられるか、神の愛を彼らは感じることができました。先祖たちが荒野で喉が渇いて死にそうになった時、神が岩から水をだしてくださったことを思い出しました。この祭りの終わりの日にキリストは立ち上がり言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

私たちは、祭りが指し示すキリストを祝います。

※今日は東日本大震災発生から8年。主のあわれみを祈ります。

よくがんばったね。

少し前にここでも書いた我が家の老猫ポコが、先週日曜日の第二礼拝中にとうとう死んでしまいました。わたしは教会学校で二階に上がっていて、その日のお話を終え、皆が教材に取り掛かったタイミングで少し様子を見に行かせてもらったそのわずか数十秒の出来事でした。ほとんど動いてなかったポコが身体を動かすような仕草をしたので抱っこしたら、少し苦しそうにのけぞって、そのまま、全身の力が抜けていく、まさにこと切れる瞬間でした。ポコの最期を看取れるようにと祈っていたので、神様は本当にそのようにしてくださったんだなあと、わんわん泣きながら、神様、本当にありがとうございます、そんな思いの中しばらく過ごしました。いのちを私たちは当たり前のように享受し、計画を立て、それがあたかも自分のもののように生きていますが、目の前でいのちの終わりを目撃する時、これが与えられたものであり、私たちが握っているわけではないことを痛いほど自覚させられます。神は神であり、私たちは被造物であるということを覚えつつ与えられた日々を過ごしていきたいと思います。 (小山晶子牧師婦人)

レビ記 21:1-22:33

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(22:21)

いけにえをささげるときに、それは傷のないものでなければいけないと神は言われました。そのように言わなければ、人は残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。自分にとって痛くも痒くもない物を捧げると言う姿勢は神を敬っているとは言えません。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないささげ物は、神がすでに捧げられました。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに私たちは救い、癒されます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 19:1-20:27

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。最後に教会はこの世界を愛するために存在しています。神はこの世界を愛し、ひとり子を与えられました。

レビ記 17:1-18:30

「あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。」(18:3,4)

日本には「郷に入れば郷に従え」という諺がありますが、英語にも「ローマにいる時は、ローマ人がやるようにしなさい。」というのがあります。その場所のしきたりを尊重することは大切ことです。しかし、「皆がしているから、良くないと分かっていても自分もしなければならない」というピア・プレッシャー(仲間からの圧力)は別問題です。私たちは聖書の民として、今をいかに生きるかを聖書から学ぶ必要があります。聖書の物語を自分の物語として生きていくことが大事です。

レビ記 15:1-16:34

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(16:2)

聖なる神が現れる時、罪ある人はその前で死んでしまいます。ですから大祭司であっても、自分のためにいけにえを捧げて、様々な規定にしたがって、聖所に入る必要がありました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコ15:38)

とあります。今、イエスの十字架の御業のゆえに聖書は言います。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

レビ記 14:1-57

「祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。」(14:4)

この章はツァラアトがきよめられるときの教えです。感染者がきよめられるということはありえないことでした。しかしキリストは多くの感染者をいやされました。ある時は、10人の感染者に言いました。

「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」(ルカ17:14)

彼らは行く途中でいやされたと聖書は言います。祭司たちはきよめられる者のための規定が書いてあることを知っていても、使う時がくるとは思いもしなかったのではと思います。この手続きはキリストが来られていやしが行われることの預言だったと言えるかもしれません。ある先生はこの箇所の杉の木は十字架、緋色の撚り糸はキリストが流された血を象徴していると言います。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)