レビ記 13:1-59

「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。」(13:2新改訳二〇一七)

第三版、新改訳二〇一七でツァラアトと訳された単語を、聖書協会共同訳では

「既定の病」

と訳しています。このように解説しています。

「『ツァラアト』はその語源も意味も明らかではない。『ツァラアト』は祭儀的な汚れという観点から人や物について書かれている。人について用いられている場合には、何らかの皮膚の疾患を指すが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない。」

はっきり分かっていないものの、罪の象徴として聖書には取り扱われています。キリストは彼らを汚れていると宣言するためではなく、彼らに触れ、彼らを癒すために来られました。

レビ記 11:1-12:8

「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。」(11:2)

食物規定は、イスラエルの民が、他の民とは区別されていることを示すものでした。もちろん、学者たちが指摘してきたように、バクテリア、寄生虫、ウィルス、毒素などの問題から彼らを守る役割もあったと思います。イエス・キリストは旧約聖書を成就されました。ですから、聖書は言います。

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:19)

イエス・キリストが成し遂げられたことを無視して食物規定に縛られないように、聖書はさらにこう記しています。

「食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(Ⅰテモテ4:3-5)

ビバ!炊飯器!!

先週の婦人会の折、以前いただいたサムゲタンキットを使って昼食を作る計画を立てました。サムゲタンは韓国の丸鶏スープ。ナツメや高麗ニンジン、ニンニクなどと一緒に鶏を丸ごと煮込んで作ります。ところがいざ作り始めると鍋はもう丸鶏でいっぱいいっぱい。でも、これで下準備は完成だしいいや、と思っていたところ婦人会の皆さんはそこに野菜も次々と投入していきます。当然鍋の蓋が閉まらなくなり、もう一つ鍋を準備しようとした時、目の前に黄金のごとく輝く二升炊きの炊飯器が。炊飯器で炊きましょう!そう提案し、鍋のものを炊飯器にどんどん投入してスイッチオン。それはそれは美味しいサムゲタンが完成しました。それに味をしめ、今日のアルファのために同じ炊飯器でいま角煮を作っています。全ては益となりますね。そんな婦人会での学びも、もうすぐ新約聖書を終えるまでになりました。毎週一章づつじっくりと新約聖書を学んでいます。おいしいサムゲタンのように味のある婦人会に、みなさんもぜひ一度参加してみてくださいね。歓迎します。(小山晶子牧師婦人)

レビ記 9:1-10:20

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(10:1,2)

聖なることに携わる時は、聖なる畏れをもつ必要があります。どんなに教会の敷居を低くしたとしても、聖なることに対する畏れを忘れてサークルのようになってしまうならば、神はそのような教会を祝福されることはありません。そのように異なった火を捧げるような働き人を、神は裁かれずにおられることはありません。神は恵み深いお方ですが、同時に聖なるお方です。私たちはそのことをしっかりと受け止めて、聖なる畏れをもって神に仕える必要があります。
今日は主の日。聖なる畏れをもって、共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 7:11-8:36

「和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。」(7:15)

感謝を表す和解のいけにえとしてささげた動物の肉は、その日のうちに食べるように規定されています。いけにえとして神に捧げるのですが、その一部は神殿で働く祭司たちのものになりました。その他は捧げた人とその家族と友人がいただきました。神に捧げるのですが、そのことを通して自分だけでなく自分の家族や友人までもが祝福をいただくことができると言う霊的な原則をここに見ることができます。私たちは主の日(日曜日)ごとに礼拝を神に捧げます。神に感謝を捧げることを通して、自分だけでなく、家族や友人までもがその霊的な祝福に預かることができるという世界があることを心に留めたいと思います。

レビ記 5:14-7:10

「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。」(6:14)

ちいろば先生こと榎本師は、

「祭壇の火を燃え続けさせるために、祭司は朝ごとにたきぎが積み重ねられなければならなかったように、私たちの信仰の火が常に燃え続けるためには、私たちも朝ごとに霊のたきぎなる聖書をわが内なる祭壇にうずたかく積み上げねばならない。」

と言います。救いは神の一方的な恵みの世界ですが、私たちは日々、神との関係を築くために聖書を読み、祈る習慣を身につける必要があります。聖書も読まず、祈ることもせず、信仰の火が消えかかってしまっていることを、神のせいにするわけにはいきません。もちろん、日々の生活の中で神を優先させるためには、様々な戦いがあります。神の恵みを軽んじることがありませんように。