ヨシュア 17:1-18:28

「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』」(17:14,15)

ヨセフ族に与えられた相続地は、他のどの部族に与えられた相続地よりも広大でした。それでも彼らは不満でした。それに対してヨシュアは言います。自分たちは数が多いなどと神の恵みを誇り、不満を持つのではなく、数が多いのだから自分たちで開拓すればよいと。受け身にならずに、自発的に行動すべきだと。成功しない人の特徴は、誰かのせいにすることと言われます。してもらうことでなく出来ることを考えられますように。

ヨシュア記 15:1-16:10

「彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(15:19)

カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして、水の泉、湧き水を求めました。彼女は、そこで生活するには、何よりも水が必要であることをよく理解していたからだと思います。そして、彼女は求めたものを得ました。私たちもこの世で生きていくためにはいのちの泉が必要です。私たちもアクサがカレブに求めたように、父なる神にいのちの泉を求めることが大事です。イエス様はおっしゃられました。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9,13)

「わたしのげぼく」 

ポコが息を引き取ってから一か月。
あわただしい春休みが終わり、新年度も始まって、ようやく日々のペースが落ち着いてきました。出窓に飾ったポコの写真をそろそろゆっくり眺められそうだなあと思っていた矢先、リラの宮脇から一冊の本の紹介がラインで送られてきたのです。タイトルは「わたしのげぼく」。猫が語っているように書かれたこの本を読んで、数週間前にやはり愛猫を看取った宮脇は本屋で号泣したそうです。以前書いたように、今飲んでいる薬の影響で感情の起伏が以前ほどない私は、最近ほとんど泣くことがありません。ポコが死んだとき、その日は泣いたものの日曜日ということもあり、それ以降は泣くことなく過ごしていました。しかしこのシンプルな絵本を読むにしたがって、本当に久しぶりに込み上げてくるものがありました。ポコと過ごした日々を追体験し、ようやくちゃんと悲しみ、泣くことができたように思います。それぞれいろんな出来事に向き合いながら、毎日を歩んでいることと思います。今週も神様の助けと守りがありますように。 (小山晶子牧師婦人)

ヨシュア記 13:1-14:15

「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(13:1)

ヨシュアはこの時、90余才であったと言われます。しかし、神は彼の働きはまだ終わっていないと言いました。チャック・スミス師は、「神は私たちの引退は天国であって、この地上ではないと言われる」と言い、天に召されるその週まで講壇に立ち続けられました。私たちがどんなに歳を重ねても、霊的に成長して、神の約束の地を所有し続けることができます。(「占領すべき地」は、「所有すべき地」と訳すことができます。)ノーマン・ビンセント・ピール師は、「学ぶのをやめたら、死んだも同じだ」と言って、95歳で召されるまで、学び続けたそうです。自分で限界を設けずに主の働きに生きていくことができますように。
今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨシュア記 11:1-12:24

「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」(11:23)

旧約聖書を理解する上で一番困難なのは戦争に関する記述です。旧約聖書だけを読むと、神が戦争を肯定しているように見えます。しかし、神の御子、イエス・キリストは言いました。

「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)

教会の歴史の中には、このことを理解できないがゆえに旧約聖書の神を否定した異端もありました。しかし、聖書は創世記から黙示録まですべて神のことばです。ただそれは、旧約聖書の記述をすべて直接適用できるという意味ではありません。戦争や侵略を肯定しているという意味でもありません。イエス・キリストを旧約聖書の成就として読むということです。

ヨシュア記 9:16-10:43

「主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。』」(10:8)

大きな戦いの前に、神はヨシュアを励ましました。「恐れることはない。すでに打ち負かしたも同然だ。一人としておまえに立ち向かえる者はいない。」試練や戦いに立ち向かっていく前に、神のみ約束を聴くことは重要なことです。力強い神のみ約束を聴く時に、私たちは未来に対して大胆になることができます。私たちの未来を神はご存知です。イエス様は私たちと共にいて、私たちに勝利を与えてくださると約束してくださっています。神は地球の自転も止めることができるお方です。(13節参照)

「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:19)

ヨシュア記 8:1-9:15

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」(9:14)

イスラエルの人々は、祈って神の指示を仰がなかったがゆえに失敗を犯してしまったと言います。私たちもイスラエルの人々と同じように失敗することがあるのではないでしょうか。自分の目には明らかだと思って、祈らずに決断してしまったことが、大変な結果を生み出すことがあります。ですから、まず祈り、神のみ声を聞いて、神のおっしゃられるとおりに実行する必要があります。もちろん、祈って実行したら、問題が起こらない保証があるわけではありません。しかし、祈って祈って神の指示に従ったのなら、神がその結果に責任をとってくださいます。ですから、決断をする時は特に、祈って、祈って、みことばに耳を傾けて、主の指示を求める必要があります。

ヨシュア記 5:13-7:26

「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」(6:3,4)

エリコの人々にとってイスラエルの人々はとても滑稽に見えたと思います。イスラエルの人々は戦いのために準備するどころか、ただ城壁の周りを行進するだけだったからです。イスラエルの人々も、自分たちが何をしているのか理解できなかったと思います。しかし彼らは神の言われたことに忠実に従いました。信仰生活で一番困難に感じることは、まさに、この部分だと思います。しかし、神は言われます。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)

神の方法を理解することはできませんが、信仰によって従っていく時、私たちは神の栄光を見ます。

ヨシュア 3:1-5:12

「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(3:13)

神は私たちが成長することができるように信仰のレッスンを与える方です。15節にはこう記されています。

「ちょうど刈り入れの季節を迎えたヨルダン川は、岸いっぱいに水をたたえていました。イスラエルの民が川を渡ろうと出発し、箱をかつぐ祭司たちが足を入れた時、突然、はるか川上のツァレタン付近の町アダムで水はせき止めたられ、盛り上がり始めたのです。」(LB)

彼らが足を入れるまで、水はそこにありました。彼らの足は濡れる必要がありました。しかし、足を入れた瞬間、ヨルダン川の流れは止まりました。神は私たちに、たとえその足が濡れても、信仰の一歩を踏み出して欲しいと願われます。

ヨシュア記 1:1-2:24

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(1:9)

恐れや不安に対する聖書が処方する特効薬は、神の臨在です。神がともにおられるという事実が、私たちを恐れや不安から解放してくれます。ダビデ王も、そのことをよく理解してこう歌っています。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)

神の臨在が恐れと不安を取り除いてくださいます。復活されたイエス様が、天に戻られる前に恐れと不安の中にいた弟子たちにこう約束されました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

彼らは恐れや不安が来たらいつも、このみことばの約束を宣言していたのではないでしょうか。