1列王記 9:10-11:13

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。(10:7)

十章は有名なシェバの女王の話です。シェバはアラビアの南西、現在のイエメンの辺り。残念ながら今は紛争地ですが、当時は、アラビアの中でも肥沃な地域で、通商の面でも栄えていた地域でした。ソロモンの名声は、それほど遠くまで届きました。シェバの女王の名前が後世まで残ったのは、彼女が自分の目で確かめようとはるばる来たからです。イエス様はおっしゃられました。

「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)
主を求めましょう!

1列王記 8:22-9:9

「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(27節)

ソロモン王は、天地万物を造られた神を人が建てた建物に制限できるようなお方ではないことを認識していました。人は有限ですが、神は無限だからです。しかし、人は神を狭い人間の概念の中に納めようとします。人が建てた建物に制限できないように、人が考えた概念に神を制限することはできません。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

しかしソロモン王の神殿は、人々が無限の神と出会うことが出来る場所となりました。私たちも聖書を通して無限の神を知り、無限の神の思いを知り、イエス様の中で、無限の神に出会うことができます。

1列王記 7:23-8:21

「主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(8:10)

ソロモンの神殿を特別なものとしたのは、主の栄光が満ちたことです。どんなに素晴らしい建物でも、主の栄光が満ちなければ、そこに祝福はありません。残念ながら、エゼキエル書を見ると、神に背を向け、神との契約を破ったため、主の栄光はソロモンの神殿から離れてしまいます。その後、バビロン帝国によって神殿は破壊されます。クロス王の勅令で、ユダヤ人たちはエルサレムに帰還し、神殿を再建しましたが、「主の栄光が主の宮に満ちた」とはありません。新約聖書の時代、ヘロデ王がさらに第二神殿を改築しました。イエス様の弟子も神殿建築の素晴らしさを口にします。しかし、主の栄光が満ちたのはイエス様です。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

1列王記 6:1-7:22

「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。」(6:12)

神殿を建てている間にも、神はソロモン王に重要な現実を伝えました。それは、建物を建てることよりも神との関係の方が重要ということです。神のために建物を建てることは素晴らしいことですが、人は建物を建てることによってではなく、神との関係によって祝福されます。これは何度も思い起こす必要があります。神のためにいろいろなことをすることができますが、イエス・キリストとの関係が最優先です。親が子供にどんな高価なものを与えても、親子関係をないがしろにしたら意味をなさないように、神のためにどんな事業をすることよりも、イエス・キリストとの関係が重要です。

1列王記 3:16-5:18

「どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。」(5:6)

ソロモンは「神のために神殿を造るのだから無料で奉仕しなさい」とは言いませんでした。しかも、「あなたが言われるとおりの賃金を払います。」と、支払いを惜しむこともありませんでした。なぜなら、神のために神殿を造ることに対してそれだけの価値を認めていたからです。私たちは価値を認めているものに対して、その価値に見合うものを支払うものだと思います。私たちは日々、何に価値を見いだし、何に支払いをしているでしょうか。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)

1列王記 2:13-3:15

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(3:9)

神はソロモン王に言いました。

「何なりと望むものを求めよ。そうすれば与えよう」(5節LB)

彼はそれに対して、神の民を治めるための自分の経験や能力の不足を表明して、「聞き分ける心」、「判断力」(LB)、「理解する心」(NKJV)を求めました。原語は「聞く心」。人々に聞く心、神から聞く心という意味。神はソロモンが自分のことではなく神の民のことを考えた答えに喜び

「望まなかった財産と名誉も与えよう」(13節LB)

とおっしゃられました。私たちも、まず、自分のことではなく、神の国を求める姿勢をもちたいと思います。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

めまいのゆくえ

「頭がぐるぐる回る」
小山牧師が突然こう言い出したのは先週月曜日のこと。とにかくすべてがぐるぐる回ってまともに歩けない、というのです。なーんだ、また猫の毛が耳の中に入ってめまいを起こしたのね。あまり深く考えることなく楽観的に過ごしていたのですが、夕方になっても症状がおさまらず挙げ句の果てには気持ちが悪い、と言い出しました。慌ててかかりつけの耳鼻科に行ったところ猫の毛のせいではなく、良性発作性頭位めまい症とのことで、人間の繊細な身体ゆえの症状だということです。良性とはいえ、ずいぶん日常生活に支障が出てしまい、大変そうです。特に夕方ごろにさしかかると症状が悪化するため、夕礼拝のメッセージは座って行うことになるかもしれません。体の平衡感覚をつかさどっている耳の機能に改めて神様の創造の素晴らしさを覚えます。幸い3日目を過ぎたころから支えなしで歩くことができるようになってきたのでほっとしています。皆さんのお祈りに覚えていただければ幸いです。
(小山晶子牧師婦人)

1列王記 1:1-2:12

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2:2)

ダビデの時代、「復活」という概念はありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。それでダビデは、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいます。(Ⅱコリ5:8参照)私たちは、「子どもたちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあります。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。

「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 23:8-24:25

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24:24)

ダビデは神に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。(ここに神殿が建てられます。)アラウナは無料でその場所を提供することを進言します。無料で手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし彼は言います。

「いや、ただで受け取るわけにはいかない。ぜひ、売ってもらいたい。何の犠牲も払わずに焼き尽くすいけにをささげたくはないのだ。」(LB)

ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲を払わない、いけにえはありません。神は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

2サムエル 22:1-23:7

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(22:30)

ある注解書でこう訳しています。

「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越えることができる。(WBC)」

ダビデは、「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができる」と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していきました。リッチ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。

「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、むしろ本当は欲しくもない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱのように揺らいでるから。」