1歴代誌 9:1-10:14

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(10:13,14)

サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、

「主よ、導いてください」

と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。

「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」

と思い巡らします。主は、言われます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

主を恐れることが知識のはじめ、主を軽く見てはいけません。

1歴代誌 7:1-9:1

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(8:34)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神の恵みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエス・キリストを信じて、神の子として新生することがとても重要なのです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

1歴代誌 6:1-81

「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」(6:31,32)

ダビデ王は主の宮で一日中賛美の歌を歌うように音楽家たちに命じました。32節を直訳するならば、

「彼らは会見の天幕の臨在の場の前で音楽をもって仕えていた」。

神の臨在がある所には、賛美が満ちています。賛美に満ちている所に神の臨在があります。ですから、教会の中にいつも賛美が流れていることは大切なことです。賛美の音楽は、あってもなくても良いようなものではありません。賛美は人に聞かせるものではなく、神に捧げるものだからです。どんなに立派な大聖堂であっても、神への賛美の音楽が途絶えてしまうならば、教会としての意味を失ってしまっているのかもしれません。

この世がすべて

令和の時代に入ってからも、暗く重いニュースが続いています。どうしてこんなことが起こるのだろうかと心ふさぐ日々ですが、私たちクリスチャンは絶えず意識しておくべきことがあります。それは、この地上での歩みが私たちのすべてではないということです。特に新約聖書では繰り返し、地上では私たちは旅人であるということと私たちの国籍は天にあるということが語られています。悪魔はこの世がすべてだという嘘を私たちに信じ込ませ、この世のことで私たちの心をいっぱいにさせようと動き回っています。どうせ人生一度きりなんだから、自分の心のままに好きなように生きればいい、と囁くのです。その声を拒絶し、私たちが天の故郷に目を向けるなら、私たちは全く違う視点で物事を見ることができるようになります。この地上での歩みは、神の国の国民としての性質を養うためのレッスンの場であることに気づくとき、新たな光が心に差し込んでくると思うのです。聖書の御言葉に耳を傾け、心を満たすときに悪魔は私たちから遠ざかっていきます。   (小山晶子牧師人)

1歴代誌 4:9-5:26

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(4:10)

系図がただ続く中で、まるで通読する人のオアシスのように、ヤベツの祈りが目にとまります。ヤベツに関しては、ほとんど分かっていませんが、彼の祈りが彼の人生を変えたことを聖書はどうしても伝えたかったのだと思います。ヤベツの人生を変えた神は今も生きておられます。今も同じように、私たちの祈りに答えてくださいます。

「愛する天のお父様。どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手が私と共にありますように。災いから私を守り、私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストさまのお名前によって祈ります。アーメン」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1歴代誌 2:18-4:8

「ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。」(3:4)

ダビデがしたことに関しては、後の章で詳しく出てはきますが、この章では、この一行にまとめられています。これは、私たちに対する警告にも受け取れます。私たちのこの世での歩みは一時的で、束の間にすぎないということです。「人生を導く五つの目的」(PDL)の中にこんなことが書いてあります。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受けとめ、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」
「この地上における人生が一時的なものにすぎないという事実を受け止めて、今という時を、神の栄光のために生きることができますように。」

1歴代誌 1:1-2:17

「アダム、セツ、エノシュ、」(1:1)

歴代誌第一の一章から九章までは、系図が記されています。この系図の驚く所は、人間の祖先であるアダムからはじまることです。私たち人間のルーツは、結局、アダムにあります。すべてはアダムからはじまりました。神はアダムを造り、アダムを愛しました。しかしアダムは神を軽視し、神に背を向けてしまいました。そしてその罪が代々と受け継がれていくのです。ここに並べられた人名を見るときに、神があきらめずに関わりつづけようとされていることに驚きを覚えます。こんなに沢山の世代の間、神は忍耐し、愛を与えつづけたのです。この系図は、ダビデの時代で終わりますが、今も続いています。神の忍耐は尽きることがありません。尽きるどころか、罪を赦すためにキリストを遣わしたところに、私たちは驚くばかりの愛を感じます。
「神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。」

ホセア書 11:12-14:9

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(12:6)

信仰生活の中でもっとも難しいことの一つが、神を待つということだと思います。私たちは待つことが嫌いです。何とかして物事を自分の思い通りに動かしたいと思います。しかし、神は「待ちなさい」とおっしゃられます。神は私たちとは違うカレンダーを持っています。ヘブル語の「待つ」という単語と「希望」という単語は同じ語根です。「待つ」ことと希望を持つことが同じなのです。私たちは継続的にこの御言葉を自分の心に言い聞かせる必要があります。「絶えずあなたの神を待ち望め」。さらに、LBでは後半部分をこう記しています。

「いつも、あなたの神に期待しなさい。」

私たちは落胆を避けるために、いつのまにか期待をしないようになります。人間が期待に添えないことは多々あります。しかし、神は期待できるお方です。いや、期待以上に応えて下さるお方です。

ホセア書 10:1-11:11

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(11:8)

神はイスラエルが裁かれる理由を明確にされましたが、神の心はあわれみで熱くなっていると言います。あわれみ深い神は、私たちを裁きたいのではなく、赦したいのです。神は私たちが方向転換できるように、機会を与えてくださるお方です。神は、

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)

LBでこう訳しています。

「わたしの心は叫んでいる。何としても、あなたを助けたい。」

ホセア書 8:1-9:17

「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(8:14)

LBでは前半部分をこう訳しています。

「イスラエルは大きな宮殿を多く建て、ユダは町々の防備を固めた。しかし、自分たちを造った方を忘れてしまった。」

宮殿であれ、神殿であれ、城壁であれ、造り主なる神を忘れて何かをすることほど、空しいことはありません。詩人も明確に歌います。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩127:1新共同訳)

主ご自身が建ててくださると言っても、労苦がないわけではありません。ただ、造り主を覚えているならば、その労苦が主にあって無駄になることはありません。