ホセア書 6:1-7:16

「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」(7:10)

厳しい言葉ですが、私たちは心に留める必要がある言葉だと思います。私たちはいつも、へりくだって、神に立ち返る必要があります。私たちの人生に起こる問題は、神を求める機会となります。ですから、問題の中で祈りに導かれないなら、その問題も意味のないものとなってしまいます。メッセージ訳では、

「すべてのしるしにも関わらず、神を無視している」

とあります。いかがでしょうか。神を無視していないでしょうか。こういう賛美があります。
「私はあなたが必要です。主よ。あなたが必要です。自分の力だけで、この人生をやりきることはできません。」

聖書考古学の連載

11月号のちから誌より一年間の予定で聖書と考古学というテーマで小さな連載をすることになりました。「好き」ということ以外、知識も情報量も乏しい私がどの面下げてとの思いはありますが、大好きな考古学の魅力をできる限りお伝えできればと思いますし、何よりも考古学を学ぶことで聖書が今よりも立体的に読めるようになる一助となれればとの思いです。お祈りいただければ幸いです。
イスラエルで学んだ夏からまるまる25年の月日が流れてしまいました。行った場所の記憶や学んだことがこぼれてしまわないように、忘れないようにと情報をアップデートしながら過ごしてはいますが、そろそろ限界です。きょうの第3礼拝では、イスラエル帰還したユダヤ人を助けるBFP(ブリッジズ・フォー・ピース)で働いておられる梶山兄が証メッセージをして下さいます。「いま」のイスラエルの様子を聞ける貴重な機会ですので皆さん是非是非ご参加ください!近い将来、かの地を踏みしめることができるようにとの思いはマグマのように熱くなっています。(小山晶子牧師人)

ホセア書 3:1-5:15

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」(4:6)

この箇所で神は、当時の宗教指導者たちが、本来、神の御言葉を教える立場にあったのにも関わらず、その役割を成し遂げなかったことを批判します。人々が滅ぶ理由は、彼らが神のみことばを教えなかったからだと言うのです。使徒パウロは言います。

「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」(ローマ10:2)

熱心だから良いというわけではありません。しっかりとした知識も大事です。ですからパウロは言います。

「だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。」(2テモテ3:14)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 1:1-2:23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちをくどかれるお方だと言います。私たちがどんなに不誠実でも、神は私たちを愛することをやめません。しかし、神が私たちをくどいて、優しく私たちに語るために連れて行く場所は、「荒野」だと言います。「荒野」と聞いて連想することは、「試練」だと思います。確かに、私たちは「試練」の中で、祈りに導かれ、その中で、神の優しい語りかけを聞くことが多々あります。そう考えると、もしかしたら、私たちの人生の中に起こる試練は、神のくどきと言えるかもしれません。ですから、荒野のような時こそ、私たちは神の優しい語りかけを聞く時ということを意識して、祈りつつ、御言葉に耳を傾ける必要があります。神は優しく、語ってくださいます。

アモス書 8:1-9:15

「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(8:11)

イエス様は言われました。

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

ですから、「主のことばを聞くききん」は命に関わる内容です。教会が聖書ではなく、人々が好む話ばかりするようになったら、主のことばを聞くことの飢饉は始まっています。聖書は言います。

「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2‐4協会共同訳)

アモス書 6:1-7:17

「そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない。」と主は仰せられた。」(7:2,3)

イザヤ書にこういう箇所があります。

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(59:16)

もっとも、アモスは、イスラエルの人々のために必死でとりなしました。そして、神はアモスのとりなしの祈りに応えてくださいました。私たちは社会の問題に対して心を痛めるだけでなく、アモスのようにとりなしの祈りをすることが求められています。神は言われます。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(1歴代誌7:14)

アモス書 5:1-27

「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。』」(5:4,5)

ベテルもギルガルもベエル・シェバも、当時の偶像礼拝の中心地でした。イスラエルの人々は、まことの神を求めることよりも、目に見える偶像を参拝していました。問題は、偶像は人間が造りあげたものでしかないということです。しかし人は、その代替品に満足してしまい、生けるまことの神を求めることをしません。だから、神は言われます。

「私を求めよ、そして生きよ。」(協会共同訳)

私たちのすべての必要に本当の意味で唯一答えることができるのは、生ける神イエス・キリストだけです。人にはできないことも、神にはできます。ですから、私たちは、イエス・キリストを指し示していく必要があります。イエス・キリストを求めるならば、望みがあります。

アモス書 3:1-4:13

「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。」(4:13)

聖書の神は

「山々を造り、風を創造され、その計画を人に告げ」(協会共同訳)

ると言います。英訳では

「彼の思いを人類に現わす」(NLT)。

では、「神の思い」はどのように現わされたのでしょうか。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

つまり、イエス・キリストを通して神の思いは現わされました。イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれるためだけでなく、神の思いを現わすために来られました。私たち人間はすぐに自分なりの神々を作り、自分の思いを神の思いとすり替えてしまいます。ですから、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(ヨハネ1:14)

る必要がありました。私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の思いを受け入れる必要があります。

アモス書 1:1-2:16

「わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ。―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」(2:11,12)

ナジル人とは、ある期間特別の仕方で神に仕えることを約束した、いわゆる献身者です。その期間は様々でしたが、髪を切らず、お酒を飲むことをしませんでした。ですから、ここで酒をナジル人に飲ませたということは、献身をよく思わず、誘惑し、罪を犯させたということです。聖書は言います。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

この世界で敬虔に生きようとすることを妨げようとする人がいます。また、聖書の預言とは神のことばを語ることですが、神のことばを語ることを禁じる人もいます。私たちは互いに祈り合い、励まし合う必要があります。

母のクッキー

息子たちが引いていた風邪をまんまともらってしまい、先週久しぶりに少し高い熱を出してしまいました。金曜日は数か月ぶりに母が上京し、一緒に叔母の入居している施設に面会に行く予定でしたが、熱が下がらず行くことができませんでした。とても残念に思い、母に会うこともしばらく先になるなあと思っていたところ、突然の電話。「面会が終わったから今からそちらに行く」というのです。まさに元寇並みの唐突さです。熱でボーっとする頭をフル回転させ、のそのそと片づけを始めては見たもののふらふらになり万事休す。ありのーままのーすがたみせーるーのよーというアナ雪の歌が頭の中でリフレインする中、本当に母はやってきました。私の顔を見たら安心したのか、一時間半で母は帰っていきましたが…愛を感じるひと時でもありました。お土産に塩味饅頭とお手製のクッキー3袋を持ってきてくれたのですが勿論クッキーはグルテン。ひとまず観賞用にしています。でも、一緒にクッキーを作った幼いころの記憶は、いつまでたっても甘くおいしいものです。 (小山晶子牧師人)