明日(9/21)の礼拝は、香港のICA教会からゲストが来ます。
第一礼拝 9時
第二礼拝 10時半
第三礼拝は英語礼拝 18時から。
皆様のお越しをお待ちしています!(教会が初めてという人も歓迎します。)
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(50:4)
LBではこう訳しています。
「神である主は私に、知恵のことばを授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、主は私を目覚めさせ、御心への理解を深めさせてくれます。」
神は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、御心への理解が深められていきます。興味深いことは、神が私たちに御言葉を授けてくれるのは「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があります。
※ 明日は香港からゲストが来ます。第三礼拝は英語礼拝です。
「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(47:13)
この箇所はバビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、
「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)
ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。他者に助言を求めることは決して悪いことではありませんが、まず、まことの神に祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。
「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(45:2)
イエス・キリストは弟子たちに
「さあ、ついて来なさい」(マルコ1:11LB)
と言われました。ついていくためには、キリストの後ろを歩く必要があります。信仰生活は、キリストの後ろを歩くようなものです。キリストが前に進んでいるならば、険しい地は平らに、青銅のとびらは打ち砕かれます。さらにこの次の3節にはこんな約束があります。
「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」
キリストの後ろを歩いていくならば、隠された財宝、だれも知らない富が与えられるという世界もあると言います。私たちはキリストの後ろを歩いているでしょうか?それとも、キリストを見失っているでしょうか?
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)
私たちを造られた神は、誰がなんと言おうとも、私たち一人一人は高価で尊い存在だと言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を肯定するよりも、否定することの方が多いと思います。悪魔というのは、私たちの存在、人格を否定することによって攻撃します。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しています。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。生産性、効率性、有用性といった価値観にしばられず、神が言うから人は生きているだけで尊いと受け入れるべきです。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(42:1)
42章から「苦難のしもべ」と呼ばれるイエス・キリストに関する預言が語られています。
「彼は穏やかで、大声を上げたり路上で言い争ったりしない。いたんだ葦を折らず、今にも消えそうな火でも消さない。気落ちしている人を元気づけ、もうだめだとあきらめる者を励ます。こうして、痛めつけられた者たちに完全な正義が与えられるのを見届ける。」(2-3節LB)
イエス・キリストは、いたんでいるからといって、その葦を折ってしまうような方ではないと言います。今にも消えそうだからと言って、その火を消してしまうようなお方ではないと言います。イエス・キリストは死さえも打ち破りよみがえられたお方です。このお方はどんなマイナスも必ずプラスにしてくださいます。どんな人であってもあきらめることはなさいません。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(40:31)
イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所は、特に有名な箇所です。
「待ち望む」と訳されているように、ただ「待つ」のではなく、期待して待つことがここでのポイントです。しかも、「主」(ヤハウェ)の助けを信じ、期待し、待ち望むということです。「新しく力を得」の「新しく」と訳された単語は「交換する」という意味があります。つまり、私たちの弱さを神の力と交換して、鷲のように翼をかって上ることができると言うのです。まさに、ペンテコステの日、神の霊が人々に下り、このみことばが成就しました。
身に危険を感じるほどの強風にさらされたことは今までありませんでした。今回の台風15号は大きな爪痕を各地に残していきましたが、神奈川県も例外ではなかったと思います。鎌倉や逗子、金沢区、横浜のふ頭などが大きな被害を受け、復旧に時間を要しました。強風で窓ガラスが割れてしまうのではと不安を覚えた方もいらっしゃると思いますし、眠れなかったという方も大勢おられたと思います。未だ停電が続く千葉の方々のご苦労を思うと心が痛みます。あっという間に取り去られていった日常。まさに「明日は我が身」との意識を強くさせられる出来事でした。自分で頑張って生きているのではなく、生かされて今があるのだということも改めて感じています。台風15号が来たあの日、図らずも地域の教会の関係者が集まって初めての「防災ネットワーク作り」に関する会合が行われました。地域教会としての役割を今まで以上に意識して、地の塩・世の光であるキリスト者が良き証となれるようにと祈りつつ準備していきたいと思います。 (小山晶子牧師人)
「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(37:23)
36章、37章に出てくるアッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。この時、ヒゼキヤ王をはじめ南ユダ王国の人たちは、誰に拠り頼んでいるかが試されました。ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりもイスラエルの神を信頼することを選び、神の救いを体験しました。そしてアッシリヤ王も、だれに向かって声をあげたか、思い知ることとなりました。神様は言われました。
「あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。」(29節)
アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。
今日は、主の日。神を信頼することを選び、礼拝を捧げましょう。
「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(33:24)
ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神はこうおっしゃられました。
「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)
神は私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の後、復活後、新しい天と新しい地で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。
「主が彼らの罪を赦し、彼らを祝福するからです。」(LB)