ネヘミヤ記 13:1-31

「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)

ネヘミヤがエルサレムに戻ってくると、

「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。」(10節)

とあります。人々は「働き人」(レビ人)を軽視し、「働き人」は奉仕し続けることができなくなってしまいました。問題は、イスラエルの人々が神殿をないがしろにしていたことでした。ネヘミヤは言います。

「どうして、神殿をそんなにないがしろにするんだ」(11節LB)

これは、現代に生きる私たちにも問われています。「キリストのからだである教会」をないがしろにしていないでしょうか。ネヘミヤは、神を大切にするがゆえに、神殿を大切にしました。私たちも「キリストのからだである教会」を大切にしましょう。

ネヘミヤ記 11:22-12:47

「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(12:43)

いつの時代も礼拝の中心が賛美の歌を神に捧げることであったことが、この箇所から分かります。女性も子供も一緒に喜び歌ったとあるように、これは会衆賛美です。さらに、「喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」という箇所から、結構大きな音だったことも想定されます。しかし、無秩序であったわけではありません。46節には「昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。」とあるように、ワーシップ・リーダーが導いていたことも分かります。聖書が私たちに伝えていることは、神はそれほど私たちの賛美の歌声を望んでおられるということです。心から主に賛美の歌声を上げましょう!

今年最後の日曜日です。

はやいもので2019年が今日を含めてあと三日で終わろうとしています。それぞれ様々な出来事の中で一日一日を積み重ねてきたことでしょう。終わってしまうとあっという間ですが、実はいろんなことがあったことに驚かされます。大きな台風が二度も直撃したことはわたしのなかでは今年の大きな出来事の一つですし、義兄の手術のこと、リラの福島コンサートツアー、友人を天に見送ったこと、長男の入試やオープンチャーチ、クリスマス、アルファフィルムシリーズの開催などなど。それ以外にもいろんなことがあって悩んだり、不安になったり。でも神様は必ず脱出の道をそなえてくださっていました。そういう意味で恵み多き一年であったとも思います。全てを益に変えてくださる主を信頼して歩めることこそ、幸いな人生なのだと思います。2020年も一足一足、主に信頼して歩んでいくことができますように。みなさん、今年も拙い私の文章をお読みくださりありがとうございました。来年も引き続きよろしくお願いします!
(小山晶子牧師人)

ネヘミヤ記 9:38-11:21

「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」(10:39)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「このように、私たちは神殿をなおざりにしないことで一致したのです。」

私たちは信仰を個人的なものとしすぎる傾向があると思います。もちろん、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れることから信仰生活は始まります。しかし、それはまた信仰の共同体である「キリストのからだ」である教会の一員になるという意味があります。教会をなおざりにした信仰生活というのは、聖書的にはありえません。イスラエルの人々は、自分と神との関係が大事だから、神殿はどうでもいいとはしませんでした。詩篇にもこういう箇所があります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1新共同訳)

何ができなくても、教会で共に座って礼拝を神様に捧げるだけでも大切なことです。今日は今年最後の主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ネヘミヤ記 9:1-37

「彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。」(9:3)

多くのクリスチャンたちが祈り、待ち望んでいるリバイバル現象が今日の箇所に描かれています。

「二、三時間の聖書のメッセージ。その後、数時間にわたって、罪の告白と悔い改めの祈りの時間。そして、何時間も続く神への賛美と礼拝。」

リバイバルが起こると人々は聖書のみことばをもっと読み、味わい、そして学びたいと、何時間でもみことばに耳を傾ける人々で教会が溢れます。そして、人々は神の前に砕かれ、悔い改めの祈りが何時間も続きます。神は砕かれた悔いた心に目を留められます。そして、神を礼拝したい人たちで教会が溢れます。霊とまことをもって賛美と礼拝を捧げる人たちで満ちあふれるその場所に、誰でも分かるほどのキリストの栄光と臨在が満ちあふれます。

ネヘミヤ記 7:4-8:18

「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)

今日の箇所を他の訳では以下のように訳しています。

「主を喜ぶことは、あなた方の力だからだ。」(新改訳二〇一七)

「神様を喜ぶことこそ、あなた方の力なのだ。」(LB)

「主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」(協会共同訳)

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新共同訳)

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(口語訳)

「主の喜びはあなたがたの力である。」(直訳)

「神の喜びは、あなたの力です。」(メッセージ)

私たちが神を喜ぶことも私たちの力になりますし、私たちに与えられる神の喜びも私たちの力になります。日曜日の礼拝を、セレブレーション(祝典)とも呼びます。日曜日、キリストは復活されました。今、生きておられる主を喜び祝うことが礼拝です。私たちがキリストを喜び祝う時、力づけられます。主に賛美を捧げることによって力を受けます。

ネヘミヤ記 5:1-7:3

「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(6:9)

悪魔は脅したり、騙したりして、神の民の気力を失わせようとします。福音伝道をする気力を失わせようとしているのは悪魔です。教会を建てあげようとする思いを挫こうとするのは悪魔です。ですから、ネヘミヤのように主の前に膝をかがめ、主の助けをいつも求める必要があります。

「私を力づけてください」

と、祈り求める必要があります。私たちは、祈り続けるならばその結果を見ることができます。

「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16節)

祈りましょう。主は成し遂げられます!

ネヘミヤ記 3:1-4:23

「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」(4:9)

いつの時代でも、神のために働こうする人たちに対する悪魔の攻撃の方法をここに見ます。それは、「嘲り」「脅し」「落胆」。

まず悪魔は、神のために働くことをばからしいことのように「嘲り」ます。

それでも神のために働いていると「脅し」ます。悪魔の「脅し」に耳を傾けてはいけません。警戒しつつ神に祈り求めることが大事です。どうやって警戒し、どうやって身を守ったらいいか?それは、エペソ6章にあるように「神の武具」を身に着けることです。特に「信仰の大盾」をしっかりと持ち、こころないことばや否定的な思いの矢から自分の心を守ることが大事です。

その次の攻撃は「落胆」。「無理だ…」と思わせます。(10節参照)しかし、聖書は言います。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」(8節)

ネヘミヤ記 1:1-2:20

「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」(1:11)

「あなたの名を喜んで敬う」を新改訳二〇一七では、「喜んであなたの名を恐れる」と訳しています。「敬う」と訳された単語は「恐れる」という意味があります。神に対する健康的な恐れの欠如は、祈りの妨げとなります。ネヘミヤは、「幸いを見せ」て欲しいと祈ります。「繁栄」や「成功」を意味する単語です。聖書協会共同訳では、「願いをかなえ」と訳しています。「繁栄」や「成功」といった祝福を求めること自体は、聖書的であり、決して悪いことではありません。すべての祝福、良いものは神から来るからです。