エズラ記 10:1-44

「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(10:4)

今日の箇所から神が私たちに教えていることは、エズラがリーダーシップをとることができた理由の一つは、彼を励まし、彼を支える協力者たちがいたということです。どんな組織や団体でも、リーダーを励まし、協力者となることができる人々が必要とされています。特に、神のために立ち上がった献身者たちを、励まし、協力する姿勢が必要です。1節には、こんなことが書いてあります。

「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」

一緒に泣いて、一緒に祈ることを通して、開かれる世界があります。牧師は、共に涙を流し、祈り、協力してくれる人を必要としています。

熱湯

自分でも自分がしていることが分からない。そんなことはありませんか。  先日、パスタを茹でるために大きな鍋でお湯を沸かしていました。せっかくなら火力の強い隣のコンロに移そうと思いほぼ沸騰した鍋の両側をしっかりもって持ち上げたその時、自分が素手で持ち上げたことに気付きました。あ、でもそんなに熱くないのね。そう思った次の瞬間、熱い!!ようやく熱さを感知した脳が指令を出し、すぐさま手を放したくなりましたが、まだ持った鍋は隣のコンロに到達していません。熱さに耐え、隣のコンロに鍋を置いたつもりだったのですが焦って安定した場所に置く前に手を放してしまい、あぶない!と思った時には鍋は絵に描いたようにコンロから落ち、熱湯が床一面に。スローモーションで見ているようでした。その瞬間夫が助けてくれたので熱湯をかぶらなくて済んだのですが、なぜ私は素手で熱いと分かっている鍋を移動させようとしたのか、いまだに謎です。「彼らは自分のしていることが分からないのです。」というイエス様のお言葉を思い出しました。(小山晶子牧師人)

エズラ記 8:15-9:15

「すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」(8:23)

聖書が教えていることは、神は私たちの祈りを聞いてくださるお方ということです。神は私たちの祈りに答えなければならないわけではありません。しかし、神は私たちの祈りに答えられることを選ばれる神です。エズラは王に、

「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」

と言っていたので、道中の敵からエズラたちを助ける部隊を王に求めることを恥ずかしく思いました。それで、エズラたちは祈りました。そして神は祈りに答えられました。

「私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。」(31節)

神は私たちの祈りを用いられます。

今日は主の日。クリスマス礼拝。共に主に礼拝を捧げましょう。

エズラ記 7:11-8:14

「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」(7:28)

エズラは主の御手が彼の上にあることを知っていました。神の御手が彼の上にあることを知っていたから、彼は奮い立つことができました。神の見えない御手が私たちの上にあることを知るならば、私たちもまた立ち上がることができます。初代教会も大ぜいの人が信じて主に立ち返った理由は、神の御手が彼らとともにあったからだと言います。(使徒11:21参照)神の御手は見えなくても、神の指紋は見ることが出来ます。聖書は言います。

「神を尋ね求める者には恵み深い御手がある」(8:22協会共同訳)

確かに、神を尋ね求めた博士たちはイエス・キリストを拝することが出来ました。私たちも、神を尋ね求めているならば、神の御手があることを確信することができます。神の御手が私たちを導き、励まし、守り、強め、勇気を与えます。

エズラ記 6:1-7:10

「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。」(6:14)

イスラエルの人々が神殿を建てることに成功した理由の一つとして、預言が挙げられています。ここでいう預言とは、ハガイ書、ゼカリヤ書に記録されている聖書のみことばです。私たちが何かを成し遂げるためには、いろいろな要素が必要ですが、何よりも、神の御言葉、聖書に耳を傾ける必要があります。自分の思いや、自分の意志で成し遂げようとして、行き詰まる時があると思います。その時、何に耳を傾けるかが重要です。私たちは神の言葉、神の語りかけが必要です。神は今も、私たちが成し遂げることができるように聖書のみことばをもって、私たちを力づけられます。

エズラ記 4:6-5:17

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(5:1)

二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書2章にこう記録されています。

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。‐万軍の主の御告げ。‐あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

世界を揺り動かす大リバイバルを信じて、祈りましょう!

エズラ記 2:68-4:5

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4:4)

キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神の国のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に神の言葉を伝えます。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

エズラ記 1:1-2:67

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(1:5)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、

「神にその霊を奮い立たされた」

からです。この世界でキリストの教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神に奮い立たされなければ成し遂げられません。彼らはまた6節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。

主の宮を建て上げるために、協力が必要です。

マラキ書 2:17-4:6

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(3:10)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当でしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。つまり「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」を神はご覧になられていると言うのです。神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。所属する地域教会に捧げる時、神は私たちのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれます。その祝福は自分個人だけにとどまるものではありません。自分が属している共同体全体にあふれます。強制ではありませんが、神の祝福を体験できるように、捧げる事ができるように祈りましょう。