詩篇 13:1-6

「主よ。いつまでですか。」(13:1)

ワーシップ・リーダーのマット・レッドマンがこんな記事を書いています。

「確か、ユージーン・ピーターソン(メッセージ訳の訳者)だったと思いますが、こんなことを言っています。詩篇の七〇%は哀歌で、作者の暗闇の時期に書かれたものです。神に「この状況を、あなたはどうされようとしているのですか?」と泣き叫んでいるものです。詩篇13篇を見ると、「主よ。いつまでですか。あなたは私を全くお忘れになるのですか。」と質問に質問が繰り返されています。でも、終わりに彼は言います。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。」(5節)彼は、すべて今は順調だと言ったのではなくて、信頼の問題だと言ったのです。自分はよく分からない。この苦しみから自由になりたい、でも、一日の終わりには、主よ、あなたを信頼します。」

詩人は言います。

「しかし私はあなたの尽きない愛を信頼します。」(5節NIV)

詩篇 12:1-8

「主よ。お救いください。」(12:1)

ここに力強い祈りの言葉があります。ここで使われている「お救いください」という言葉に「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城する時、人々は「ホサナ!」と叫びました。これは、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳せます。マタイ14 章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。「主よ。助けてください。」イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神の現実を体験します。ちいろば先生はこう勧めます。「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」

箴言 2:12-22

「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(2:21)

リビングバイブルでは今日の箇所をこのように訳しています。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。」

神との関係が正しくない時、わたしたちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされているように見えても、心のどこかに隙間を感じることになります。イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使いますが、この言葉には

『神様とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?』

という意味があるそうです。

『今日、あなたと神様との「シャローム」はいかがですか?』

もし、告白していない罪があるならば、いま神に告白し、赦しをいただいてもう一度神との正しい関係に入れていただきましょう。もし、赦せない思いを抱えているなら、その人を赦す決心を祈りをもって告白し、神との正しい関係に戻ることができますように。

リベカの憂鬱

ビブリオン(旧・婦人会)で創世記を一章ずつ味わっています。先週は27章、イサクがエサウを祝福しようとしていたにもかかわらずリベカの入れ知恵で弟のヤコブがその祝福の祈りをだまし取ってしまったというところでした。25章には「イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した」とありますのでこれまでずっと親の偏愛が招いた悲劇だと私は考えていました。ところが、リベカは妊娠中おなかの中でぶつかり合う子どもたちに不安を覚え、神様の御心を求めに行ったことが記されています。そのとき神様は「兄が弟に仕える」と明確に語られたのです。とするならば、祝福の祈りもリベカの入れ知恵というよりは、神様の御心を知っているがゆえに自分の力でそれを実行しようとした、と考えた方が自然かもしれません。ただ本当はイサクもリベカもこの時こそ主の方法を求めて祈るべきだったのではないかと思うのです。エサウに命を狙われ逃げたヤコブ。悲しいことにその後ろ姿が、リベカの生涯で見る、ヤコブの最後の姿となってしまいました。    (小山晶子牧師婦人)

詩篇 11:1-7

「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(11:7)

1節から3節まで、詩人はこの地上の混乱に関して言及します。

「『法も秩序もなくなった。正しい者は逃げるしかない』と、人々は言います。」(3節LB)

しかし、詩人はその視点を地上から天に移します。

「しかし、主は依然として聖なる宮に住み、天からすべてを支配しておられます。地上での出来事をことごとく監視しておられます。」(4節LB)

神は確かに今生きておられ、すべては神の御手の中にあります。そして、神はすべてを正しくされます。たとえ今そう見えなくても、最後には神はすべてを正されると聖書は伝えます。もっとも「正義」という名の下で多くの悲劇が繰り返されてきたことを忘れてはいけないと思います。神の正義が、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の中にあることを忘れてはいけません。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 10:12-18

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」(10:17、18)

リビングバイブルでは、こう訳しています。

「主よ。あなたは謙遜な人の望みが何であるかご存じです。必ずその叫びを聞いて救いの手を差し伸べ、心に安らぎを与えてくださいます。主は、みなしごや虐待されている人たちのそば近くにいてくださるお方です。それで彼らは、地上の者たちから、二度と脅かされることはありません。」

1節では、詩人は神を遠く感じていました。苦しみのときに、神の不在を感じていました。しかし、最終的に神が世々にわたって永遠の王(16節)であることを悟ります。究極的にこの世界は神の支配下にあることを悟ります。だから、私たちも詩人と共に祈りましょう。御国が来ますように。

詩篇 10:1-11

「悪しき者は高慢を顔に表わし、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。(10:4)

悪しき者の特徴は、神の必要を感じず、神を求めない人です。物事が順調に見えるがゆえに、

「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」(6節)

と言ってしまうのです。このような人は、自分がほかの人より重要な存在だと考え、特に貧しい人を軽んじ、平気で傷つけます。

「不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。」(10節)

この詩は、まず、私たちがそのようにならないように警告しています。私たちはへりくだって、神が必要な存在であることを認めなければなりません。そして、同時に、この詩人と同じように悪しき者の道がいつも栄え(5節)ているように感じているならば、神は忘れていないことを覚える必要があります。詩人が

「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。」

と祈ったように祈ることが求められています。

箴言 2:1-11

「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(2:6)

人生をかけて、日々、神のみことばを読むならば、神が知恵を授けてくださいます。

「主のことばはどれも知恵の宝庫です。」(LB)

神のことばを、私たちは蓄える(1節)必要があります。耳を傾け、心を向ける(2節)必要があります。隠された宝を探すように(4節)探す必要があります。そうするならば、主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになります。(5節)主を恐れることを知ることがどんなに大切かわからなければ、真の知恵を得ることはできません。知恵を与えるのは主だからです。

「主は、どんなときにも何が正しく何が間違っているか、正しく判断する方法を教えてくれます。」(9節)

詩篇 9:13-20

「貧しい者は決して忘れられることがなく、苦しむ者の望みは、永遠に失せることがない。」(9:18)

16節で、神はさばきを行われることによって、ご自身を知らせる方だとダビデは歌います。「さばき」が意味するところは、物事を正すということです。だから、神のさばきを信じるがゆえにダビデは、貧しい人が忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることはないと歌います。この世界の終わり、キリストが再び来られる時に、完全に、すべては正されます。しかし、神の国は、いまだであると同時に、すでに始まっています。神は私たちを用いて、この地を正すという神の御国をこの地にもたらせようとしています。神の御国は神の主権を認めることから始まります。だから、詩人は歌います。

「主よ。立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。国々が御前でさばかれるようにしてください。主よ。彼らに恐れを起こさせ、国々に思い知らせてください。自らが人間にすぎないことを、」

詩篇 9:7-12

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(9:10)

主は、主に拠り頼む者をお見捨てになるような方ではありません。しかし、私たちは時々揺らいでしまうことがあります。揺るがない信仰生活のためには、主の御名を知る必要があります。主の御名は、聖書の中でいろいろと出てきます。

「エル・エルヨーン」(創世記14:20)という御名は「いと高き神」という意味です。

「アドナイ・イルエ」(創世記22:14)は「備え主」。

「アドナイ・ロフェカ」(出15:26)は「あなたを癒やす主」。

「アドナイ・シャローム」(士師記6:24)は「平和の主」。

「アドナイ・シャンマー」(エゼキエル48:35)は、「主はそこにおられる」。

備え、いやし、平安を与え、共におられるいと高き神を、知識としてだけでなく、体験していく者は、失望させられることはありません。