詩篇 4:1-8

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(4:7)

私たちはしばしば喜びや平安を間違った場所に探し求めてしまいます。神は言われます。

「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。」(2節)

私たちはお金こそ、成功こそ答えだと思います。しかし、それは空しいものであり、まやかしもの、偽りだと言います。神だけが喜びと平安の源だと聖書は言います。神が与える喜びは、この世の繁栄に勝ると言います。この世の繁栄が私たちを平安に導くとは限りません。事実、金持ちが平安とは限りません。私たちに本当の平安を与えるのは神様の臨在だけです。ですから詩人は歌います。

「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」(6節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

箴言 1:1-7

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)

メッセージ訳では7節をこのように訳しています。

「神からはじめましょう。学ぶことの第一ステップは、神にひざまずくことです。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。家族生活を、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。

「知恵は町の中で叫んでいます」(20節LB)

とありますが、聖書は生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。愚かな人は主の教えをさげすみます。」(7節LB)

詩篇 3:1-8

「しかし、主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。」(3:3)

詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:2LB)

「天上のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2:1-12

「天の御座に着いておられる方は笑い」(2:4)

人類の歴史は、アダムとエバ以来、神を否定し、神のみこころを求めることなく、自分の欲望を成し遂げたいと願うことに尽きます。そのため、自然界の秩序は崩れ、人間社会の調和は失われました。しかし、人がどんなに天につばを吐こうとも、それがその人に返ってくるように、神は人間の企てを一笑されます。ある人が、壁にこう書きました。「神は死んだ。ニーチェ」次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。「ニーチェは死んだ。神」ボルテールという哲学者は、二〇世紀になる前に、聖書はこんな本もあったと博物館入りすると言いました。私たちは今、二一世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーです。逆に、ボルテールは、専門家以外あまり知られていません。まず何よりも、天に座すお方を認めることができますように。

詩篇 1:1-6

「その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(1:3)

詩篇はまず

「幸いなことよ」

から始まります。山上の説教の八福の教えで、イエス様が「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。幸いな者は、神のみことばを喜びとし、昼も夜も神のみ言葉を口ずさみます。思い巡らします。黙想します。神様は、そのような人を祝福し、「そのなすことはすべて栄える。」と約束されます。この新しい年、神様のみことばを喜びとし、神様のみことばを思いめぐらし、神様が約束された祝福の世界を体験することができますように。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」(浅野順一師)

※ 元日は13時半から新年礼拝です。