ようやく首都圏に出されていた緊急事態宣言が解除され、ほっとしました。もちろんすぐに元の生活に戻れるわけではありませんが、異様に静まり返っていた街に子どもたちの楽しそうに遊ぶ声が響くのを聞きながら暫し喜びをかみしめています。明日からもう6月。思い返せば新型コロナの影響が出始めてから数か月、このわずかな期間に半年前には全く考えられなかったことが次々と起こりました。入国拒否やオリンピックの延期、緊急事態宣言、学校の閉鎖、テレワーク、海外での都市封鎖など。全世界規模の「鎖国」状態はものすごいスピードで進んでいたグローバル社会にも計り知れない影響を与えています。この世界がすべてだと考えるなら、こんなにむなしいことはありません。神様を抜きに考えるならまさに「空の空。すべては空(伝道者の書1:2)」。伝道者の書は最後をこうまとめています。
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に(伝道者の書12:1)』
(小山晶子牧師婦人)
月別アーカイブ: 2020年5月
詩篇 68:28-35
「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(68:34)
「神の力を認めよ」
という言葉を、新改訳二〇一七では
「力を神に帰せよ」、
LBは
「力の源は神です。」
と訳しています。
「神の力について、すべての人に語れ」(NLT)
という訳もあれば、
「神の力を宣言せよ」(NIV)
という訳もあります。パウロはこのように言いました。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
パウロは、イエス・キリストを力の源と認めることができれば、どんなことでもできると、神の力を宣言しました。神は信じる者を滅びから救う力があります。病気をいやす力があります。祝福を与える力があります。聖霊で満たす力があります。今日はペンテコステ、聖霊降臨日。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)
共に、主に礼拝を捧げましょう。
詩篇 68:21-27
「相集って神をほめたたえよ。イスラエルの泉から主をほめたたえよ。」(68:26)
この詩は、契約の箱がダビデの町エルサレムに運び入れられたことを描いたと言われます。物理的に相集うことが難しい状態であったとしても、一致して祈り、礼拝を捧げることの重要性は変わりません。現代人は信仰を私事的なものとしてしまい、孤立して行うものとしてしまいました。しかし、今回のコロナ問題でも明らかにされたことは、信仰は公共的なものでもあり、共に集まり、祈り、礼拝することにも意味があるということだと思います。教会堂(礼拝堂)は、あってもなくても良いものではなく、私たちのこの地上における信仰生活において大切なものです。私たちは一日も早く教会堂(礼拝堂)をオープンにして、相集って神をほめたたえたいと祈ります。
詩篇 68:15-20
「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」(68:19)
イエス様は言われました。
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)
心配しなくても、私たちは日々、十分な苦労、重荷があります。ですから、イエス様は言われました。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
日々、まず、私たちの重荷を担われる主を見上げるようにと言います。そうするならば、私たちは、日々、恐れ、不安、心配事を神様に委ねることができます。神様は、日々私たちの重荷を担われる方です。
箴言 13:10-19
「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」(13:10)
「高ぶり」をLBは、「自分に自信がありすぎる人」と訳しています。謙遜に他者からの忠告に耳を傾けることができないと、ただ争いが生じるだけになってしまいます。もっとも、何よりも私たちが耳を傾けなければならないのは、聖書のみことばです。聖書は言います。
「みことばをおろそかにすると苦しい目に会い、みことばに従えば成功します。」(13節LB)
聖書の知恵はこれです。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)
私たちは謙遜になって、互いのために祈り合い、励まし合う必要があります。
詩篇 68:7-14
「神よあなたが御民に先立って出て行き荒れ野を進み行かれたとき」(68:7)
今日の箇所は、出エジプトの出来事がまとめられています。神の導きに従って、エジプトを脱出し、荒野を旅する中で、民は神の力と備えを体験し、勝利を体験しました。神の導きに従って生きる時、私たちの人生の証は、神の歴史の一部であることに気が付きます。ですから、私たちは、神が私たちの人生にしてくださったことを詩人のように語る必要があります。それは自分を誇示するためではなく、神の栄光を現わすためです。神は今も生きて働いておられます。私たちの人生を導かれています。
詩篇 68:1-6
「神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。」(68:1)
神が立ち上がる時、敵は散り失せます。イスラエルの人々は、神が立ちあがる日を待ち望み、メシアを待ち望んでいました。ですから、十字架に架かられたキリストを見た時、イスラエルの人々は幻滅しました。彼らが考えていた敵、ローマ帝国は散り失せなかったからです。しかし、現実は、敵は散り失せました。暗闇の力、サタン、悪霊は、あの十字架の御業によって散り失せたのです。私たちは、この十字架の福音を告げ知らせる必要があります。
「イエス・キリストは十字架で勝利をとられた。神は立ち上がり、敵は散り失せた。」
ですから、私たちは、神に向かって歌い、御名をほめ歌います。神の御前で喜び楽しみます。
詩篇 67:1-7
「国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。」(67:4)
LBではこう訳しています。
「国々は、あなたが彼らの王となり、公平にさばいてくださると知れば、喜び、歌いだすでしょう。」
イスラエルの人々の希望、それは、神ご自身が王となって治めてくださることです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、神ご自身が王となられたことを伝えます。天と地は、イエス・キリストの中で交わり、神の支配は、キリストを信じる者たちの間にすでにもたらされました。完全な神の支配は、この世の終わりにもたらされます。しかし今、神の民が共に集り、喜び歌う只中に、神の支配は始まっています。神の国に生きている者は、喜び、喜び歌います。教会は、神の統治を喜び、喜び歌う者たちの集まりです。
わーい、スタバ!
決まった行動をしないと落ち着かない、という私の特性について何度かここでも書いたことがありますが、緊急事態宣言によって「みなとみらいを歩く」ということができなくなって一か月以上が経ちいよいよ本当につらくなってきました。そんな私を見かねて夫が(ほとんど店が閉まっている)みなとみらいに連れて行ってくれました。もちろん店はやっていないですしエスカレーターも動いていないのですがあちこちの店で再開に向けた準備でしょうか、明かりと共にスタッフらしき人の姿もちらほらと見受けられます。クイーンズスクエアにさしかかった時、スターバックスがオープンしているのを見つけ、思わず入ってしまいました。持ち帰りのみの営業で今日からオープンしたとのこと。うえーん。泣きそうになりました。久しぶりのスタバの水出しコーヒーの味は格別でした!教会で皆さんをお迎えする日、そのときの気持ちなどを想像すると本当に、泣きそうです。もうすこし、あとすこし。神様の恵みを数えつつ、乗り越えていきましょう。
(小山晶子牧師婦人)
箴言 12:28-13:9
「義の道にはいのちがあり、その道筋には死がない。」(12:28)
私たちの目の前にはいのちに導く義の道と、死に導く偽りの道があります。自分の目に良く見える道が必ずしも命への道とは限りません。聖書は警告します。
「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(16:25)
LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。
「神を信じる人はいのちの道を歩いているので、死を恐れることがありません。」
死後のいのちが約束されているだけでなく、この地上でも、豊かないのち、意義深い人生が約束されています。
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)
とはいえ、日々聖書のみことばを読まなければ道に迷うことも考えられます。聖書は言います。
「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(詩篇119:105)
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。