箴言 12:8-17

「愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(12:15)

愚か者の問題は、自分が一番正しいと思い込んでいることです。この世界に争いが起こる理由も、みんな自分が正しいと思い込んでいるからです。正しいと思っているから忠告を無視します。互いに自分が正しいと思っているから引くことが出来ずに、衝突してしまいます。自分が正しいと思っているので、「すぐかっとなり」(16節LB)爆発してしまいます。聖書は知恵ある人は、「人のことばに耳を傾けます」(LB)と言います。我以外皆師と、他者から学ぶことができます。学ぶ心があるので、「知恵ある人は侮辱されても冷静です」(16節LB)。
聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

詩篇 61:1-8

「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです」(61:4)

「幕屋」が意味していることは、神の住まいです。私たちはやがて、天の御国で神と共に住みます。しかし、それはこれから後の話というだけではありません。イエス・キリストは私たちに「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃられました。これは神の住まいが天にあるように、この地にもあるように祈りなさいという意味です。イエス・キリストの誕生は、神の幕屋がイエス・キリストを通して人類に与えられたことを意味します。そしてイエス・キリストの十字架と復活は、この幕屋を地上にもたらしました。具体的には、詩篇22:3にこう書いてあります。

「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」

賛美と礼拝は、神のリビングルームです。私たちが、賛美と礼拝を神に捧げる、そのただ中に、神はおられます。

詩篇 60:5-12

「神によって、私たちは力ある働きをします。」(60:12)
「神によって」は「神の中で」(in God)とも訳せます。自分をどの位置に置くかが、私たちの人生に影響を与えます。ダビデは、自分を神の中に置くことによってベストを尽くすことができました。自分を神の中に置くことを意識することは汎神論とは違います。神の臨在を意識して生きていくということです。これが、私たちが力強く生きていくために重要です。人にはできないことも神にはできます。神の中に生きているならば、私たちの能力を超えたすばらしいことを期待することができます。それは、自己満足の世界ではなく、神の御国をこの世界に体現していくことです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の御国がこの世界にはじまっていることを体現する人生です。

詩篇 60:1-4

「あなたはあなたを恐れる者に旗を授けられました。弓から逃れた者をそこに集めるために」(60:4)

約束の地に向かうイスラエルの民にアマレクの戦士たちが闘いを挑んだ時、ヨシュアたちは戦いのために出て行き、モーセはアロンとフルと共に丘の上に登りました。モーセが手に持った杖を差し伸べている間はイスラエル軍が優勢になりましたが、腕を下げると、アマレク軍が優勢になりました。モーセの手が重くなったので、アロンとフルはモーセの手を支え、そのようにしてイスラエル軍はアマレク軍を打ち破りました。この時、聖書はこのように記録しています。

「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ(「主は勝利の旗」の意)」と呼びました。(出エジプト17:15LB)

ですから、

「あなたはあなたを恐れる者に旗を授けられました。」

という意味は、主を恐れる者に勝利を与えられるという意味です。

主を恐れる者に、主は勝利を保証されます。

箴言 11:29-12:7

「人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。」(12:3)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。悪いことをしていて、人生が安定することはありません。たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。それは、砂の上に人生を築き上げるようなもので、必ず、崩れ去るときが来ます。正しいことを行うことだけが、しっかりとした土台に築き上げることができる方法です。正しい人の根はゆるぎません。しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。「

正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク 2:4)

詩篇 59:9-17

「私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。」(59:9)

ダビデが逆境の中で発見したことの一つは、人生の力、力の源である主を見続けるということです。そして、朝ごとに私たちの力、神を賛美することです。私たちが逃げてよい逃げ場は、賛美を住まいとしておられる神だけです。神のもとへ身を避けるなら、ダビデと同じように歌うようになります。

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(59:16,17)

あいする母上

きょうは母の日。
わたしたちはみんなお母さんから生まれてきました。今この地上にお母さんがいる人もいない人も、全ての人には自分を産んでくれた「お母さん」という存在がいます。有名な十戒には、人間関係における戒めに関しての一番はじめにこう記されています。
『あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:12)』。
3年前の今頃、わたしは鬱がひどくなりほとんど何もできなくなりました。「おかあさん」ならできて当たり前のことができなくなった時、自分は存在するだけで周りに負担をかけてしまう、そう思いました。でもその時初めて『私の目にはあなたは高価で尊い』という御言葉を本当の意味で理解することができたのです。何かできるから、ではなく存在そのものを神様は愛してくださっている。わかっていたようで実はわかっていませんでした。立派な父だから、素敵な母だから敬え、と聖書は語っていません。ただ「敬え」と命じています。そのことに心を留め、すべての「お母さん」に心からの感謝を表す一日にしたいと思います。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 59:1‐8

「どうか目を覚ましここに来て見てください。」(59:4)

神は私たちの力、砦、苦しむ時、そこにある助けです。しかし、神を信頼することは容易な人生へのレシピではありません。逆に、いろいろな反発を体験することさえあります。この詩の作者、ダビデは脅威の中にありました。表題を見ると、「ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。」とあります。このような状況下でダビデがまずしたことは祈ることでした。ダビデは神の救いを確信します。「私には咎がないのに」(4節)と言うように、ダビデには身に覚えがないのに、ダビデは攻撃を受けていました。私たちも、時として、身に覚えがないのに逆境を体験することがあります。ですから、ダビデのように苦難の時に主を呼び求めることが大切です。

「主よ、目を覚まして、よくごらんください。そして助けの手を差し伸べてください。」(LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 58:1-11

「力ある者よ。ほんとうに、お前たちは義を語り、人の子らを公正に裁くのか」(58:1)

テレビや新聞で報道される国内外の事柄から家庭や学校など身近な所に至る出来事まで、私たちは自分の価値観で物事を判断し、裁く傾向にあると思います。多くの場合、自分は正しいと思い、正義感に燃えてジャッジをするのですが、果たしてそれは本当に正しい判断なのでしょうか。自分の育ってきた環境だけがすべてではなく、視点も様々です。私たちは何かを判断する場合、もっと謙遜になるべきではないでしょうか。私たちは神ではありませんから当然不完全であり、間違いも犯します。そんな欠けのある私たち人間が、自分の判断、ジャッジは絶対に正しい!と思うことに関して聖書は警告を与えているのです。58篇の最後はこう締めくくられています。

「まことに、さばく神が、地におられる。」

公平に裁くことが出来るのは神だけです。この神を恐れましょう。

箴言 11:19-28

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(10:25)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)