食べたい気持ち

自粛生活はひとまず終わったものの、以前とは違う生活は相変わらず続いています。エスカレーターでは数段前の人と間隔をあけ、入店の際には除菌や検温。隣のカウベルも持ち帰りを始めました。海外への渡航も国内の移動もまだまだ以前のようにはいきません。いろんなことを考え始めるとなんだか寝付けなくなってしまい、仕方ないので「コロナが終わったら食べに行きたいもの」を考えてみました。まずはやっぱり明石焼き。夏なので鱧の梅肉ソースいいなあ。観音屋のチーズケーキ、下村の焼きアナゴ、寿司清のお寿司。考え始めるとおなかがすいてさらに眠れなくなり、そうか、県をまたいだ移動が解除されたら帰省すればいいんだという結論に達しました。
獄中で自由を奪われて過ごしていたパウロは行きたくてもいけない、というもどかしさの中で手紙を書きました。そこまで厳しい監視下にはないにせよ、私たちもその苦しさは体験したのではないかと思います。気持ちを追体験するうえで、今がパウロの獄中書簡(ピリピ、コロサイ、エペソ、ピレモン)を読む良いチャンスかもしれません。    (小山晶子牧師婦人)

箴言 15:11-20

「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(15:15)

私たちは多かれ少なかれ、育っていく中で「こうすると何か悪いことが起こる」という迷信に影響を受けてはいないでしょうか。どんなに小さな出来事でも、悩み始めると雪だるま式に大きくなっていきます。何の根拠もない迷信に影響されて日々を過ごすことほどもったいない生き方はありません。『根拠のない』迷信に汚染されていないでしょうか。聖書が明確に私たちに語っていることは、神が私たちを愛し、気にかけ、必要を備え、将来と希望の計画を持っておられることです。イエス・キリストが私たちの心に住んで下さるなら、私たちの心に楽しみがあります。キリストと共にある人生は毎日が宴会です。

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。」(詩篇23:5)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 76:1-12

「神はユダにご自分を示される。イスラエルにその御名の偉大さを。その仮庵はサレムにその住まいはシオンにある。」(76:1、2)

サレムはエルサレムのこと、シオンは神殿のある丘の名前です。エルサレムにある神殿は、神の臨在の場所であるということです。もちろん、今、イエス・キリストの十字架の御業によって、神の臨在はイエス・キリストを信じる者のただ中にあります。聖霊によって、神の民が集まるそのただ中に、神は住まわれます。詩人は、この「神を敬い、恐れるべきです。」(11節LB)と言います。

「あなたは立ち上がって、悪を働く者を罰し、謙遜な人を弁護します。」(9節LB)

詩篇 75:1-10

「高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。」(75:6,7)

神こそさばき主。神が公正に裁かれ、統べ治めます。神がある人を立たせ、神がある人をひざまずかせます。ですから、聖書は言います。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)

神は言われます。

「わたしは思い上がった者に、謙遜になるよう警告した。悪者には、傲慢な態度を捨て、強情な生き方もやめよと言った。」(4,5節LB)

私たちはへりくだり、神が必要であることを認める必要があります。神がすべてを正される時が来ます。

詩篇 74:18-23

「どうか、契約に目を留めてください。」(74:20)

旧約聖書と新約聖書の約は、契約の約です。聖書を理解する上で大事なのは、この神との契約です。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約、そして、聖餐式における杯は、キリストの血による新しい契約を表しています。杯を飲むたびに私たちは、キリストを信じる者は、キリストが流された血潮のゆえにすべての罪が赦されたという契約を覚えます。この契約内容を明確に表したのがヨハネ3:16です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

私たちは、この神との契約の中に生きています。キリストを信じ、水のバプテスマを受けると言うことは、この神との契約書にサインをするということです。

箴言 15:1-10

「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」(15:4)

「穏やかな舌」は、直訳すると「癒しの舌」。

「癒しをもたらす舌は、いのちの木」

という意味だと思われます。私たちのことばは人々の人生を変えます。ですから、メッセージ訳はこのように訳しています。

「やさしいことばは、いやしと助け。痛烈なことばは、痛みと傷。」

ネットにおける誹謗中傷が問題となっていますが、私たちはいのちを与える言葉を使うことを気にかけるように聖書は言います。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

イエス・キリストは、このように警告します。

「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ12:36)

詩篇 74:10-17

「神は昔から私の王、この地において救いのみわざを行う方。」(74:12)

詩人は魂の暗闇を体験する中で、神の力を思い起こします。今、見えないからと言って、すべてを否定する必要はありません。知らないことのゆえに、知っていることまで手放す必要はありません。神こそ天地を創造された方であり、統べ治めておられるお方です。神は、今、救いの御業をこの地で行われています。神は、そのひとり子、イエス・キリストを与え、救いの御業を完成されました。まず何よりも、キリストを信じる者は、皆、罪から救われ、永遠のいのちを持ちます。神の宣教、「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」(エペソ一・十)は、今、キリスト者を用いて続けられています。だから、パウロは祈ります。「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ一・十九)

詩篇 74:1-9

「あなたの足を永遠の廃墟に踏み入れてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。」(74:3)

私たちは魂の闇と呼ばれる体験をする時があります。詩人のように、

「ああ神よ。なぜいつまでも私たちをお見捨てになるのですか。なぜ、あなたを信じて従う私たちに、こんなにも激しい怒りを向けるのですか。」(1節LB)

と叫ばずにはいられない時があります。まさに、

「こんな状態がいつまで続くのか、だれも知りません。」(9節LB)

このような詩篇が聖書に含まれている理由は、まず、そのような苦悩を体験しているのは「あなただけではない」ということを知るためです。残念ながら、

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)

また、この詩は、どうやって祈ればよいか分からない、私たちが自分の祈りのことばとして祈るためでもあります。神は私たちの祈りを聴かれるお方です。

デザートアルファ開催中

6月から新たにアルファを始めています。ゲストは今のところ一人なのですが、今までと少しだけ変化があります。これまでアルファでは食事を提供していましたが、今回は私が大好きなスイーツたちを独断でセレクトしてお出しする、ということにしました。 ちなみに第一回目は「さつま芋と紫芋のようかん」。きょうは「御座候のあんこを使った冷たい白玉ぜんざい」にしようと思っています。堂々とスイーツが食べられるなんて、我ながらなんてうまい企画を思いついたのだろうと思います。聖書には「主の素晴らしさを味わう」ことが命じられていますが、おいしいスイーツを堪能するように神様の素晴らしさを時間を取って日々味わっているでしょうか。神様の御言葉はハチミツより甘い、というたとえもあります。スイーツをいただくように、ゆっくりと味わって御言葉を少ずつ味わうことができたらと思います。しっかり味わうことで、今度は周りの人にその美味しさを自分の体験として、よりリアルな言葉で伝えることができるようになります。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 73:15-28

「しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」(73:28)

神と共に生きる幸いを、他に比べることはできません。ウェスレーが言うように、神が共におられることは、すべてに勝ります。(The Best of all is God is with us.)神の臨在、神の導き、神の力、神の約束、「あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」(24節)を知るならば、他の人たちにもこの幸いな知らせを語り告げないではいられません。しかし、詩人は前半部分で、そのことを見失っていました。神に従う生活が苦しみと災いに見えていました。詩人の視点を変えることが出来たのは、神の聖所に入ったからです。(17節)私たちは神の聖所に入る必要があります。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げることを通して、神の聖所に入りましょう!