詩篇106:32-39

「彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。モーセは彼らのゆえにわざわいを被った。彼らが主の御霊に逆らったとき彼が軽率なことを口にしたのである。」(106:32,33)

メリバでの出来事は民数記20章に出てきます。モーセはこの時、怒りに燃えて軽率な行動をとってしまったために、約束の地に入ることが出来なくなってしまいました。いつでも冷静に行動できる人は稀だと思います。モーセも完全ではありませんでした。モーセは民の姿にすっかり冷静さを失い、それが彼の罪として記録されてしまいました。
私たちも自分の弱さを認め、聖霊の力を求め、互いのために祈り合っていきたいと思います。

箴言22:7-16

「怠け者は言う。「獅子が通りにいる。私は広場で殺される」と。」(22:13)

怠け者はとんでもない言い訳をすると言います。L Bではこのように訳しています。「怠け者は、「仕事になんかとても行けない。外にでたらライオンに食い殺されるかもしれない」と言いわけをします。」言いわけばかり考えていると、何も出来なくなってしまいます。聖書の時代、確かにライオンがたくさんいたと思われます。古代の王は、自分の権力の誇示のためにライオン狩りをしました。ですから、ライオンに出会う確率がなかったわけではありません。しかし、そんなことを言っていたら何もすることはできなくなってしまいます。私たちもできない言い分けを考えるのではなく、主に信頼し、挑戦する人生を歩みたいと思います。

詩篇 106:16-31

「そのときピネハスが立ち仲立ちをしたので主の罰は終わった。」(106:31)

ピネハスの話は民数記25章に出てきます。荒野を旅するイスラエルの民が、不品行の罪に陥った時に、罪を犯したイスラエル人を殺し、主の罰を終わらせた祭司です。「このことは代々にわたり永遠に彼の義と認められた。」(31節)と言います。使徒パウロは、まさに、このピネハスにならってキリスト者を迫害していたと考えられます。しかし、使徒パウロは後に自分の過ちを後悔しています。新約聖書が私たちに教えていることは、旧約聖書を猿真似をするような読み方をしてはいけないということです。ピネハスのように人を殺すことを聖書は肯定しているわけではありません。ピネハスが義と認められたのは、まず、何よりもこの世と調子を合わせずに、立ち上がったことです。破れ口に立って祈ることが義と見なされるのです。

詩篇106:1-15

「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(106:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は「トーヴ」、英語のGoodに相当する単語です。神は良い神です。だから、感謝する必要があります。「恵み」と訳された単語は、「へセド」、信実、揺るがない愛を意味します。神の「へセド」、信実、揺るがない愛は永遠です。だから感謝する必要があります。詩人は感謝と賛美を捧げた後に、罪の告白をします。「私たちは先祖と同じように罪を犯し不義を行い悪を行ってきました。」(6節)詩人はダニエルが祈ったように(ダニエル9:4―20)、民族を代表して罪を告白し、祈ります。「自分は悪くない」ではなく、破れ口に立って祈る、そのような人を主は探しておられます。

詩篇105:37-45

「これは彼らが主のおきてを守りそのみおしえを保つためである。ハレルヤ。」(105:45)

「何もかも主が主の契約を覚えられていたからだ。彼のしもべ、アブラハムへの主の約束を。」(42節MSG)聖書の神は契約の神であり、契約を守られる神です。今日の箇所はエジプトを脱出したイスラエルの民を主が導かれたことが描かれています。主が民を導いたのは、アブラハムとの契約のゆえであるから、これからも、主のおきてを忠実に守るようにとまとめられています。イエス・キリストを信じるということは、神との新しい契約関係を結ぶことを意味しています。それで、私たちは聖餐式を大切にします。イエス様は言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(1コリント11:25)
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の礼拝も10:25よりYouTubeによるライブ配信のみ。(今後に関しては、本日の役員会で決定します。)
メッセージは、ニューホープ横浜の通称タンタンこと、山口武春牧師です。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言21:27-22:6

「へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。」(22:4)

充実した意義深い人生を歩む鍵は、「謙遜」と「主を恐れる」ことであると聖書は言います。「主を恐れることは知識の初め。」(1:7)主を恐れることからはじまります。また、使徒ペテロは言いました。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5、6)

「謙遜」と「主を恐れる」ことは聖書が教える私たちが身に着けるべき生き方です。「謙遜で主を敬う人は、富も名誉も長寿も与えられます」(L B)なぜなら、「謙遜」で「主を敬う人」は、神の御言葉に生きるからです。

「ベストを尽くし、最悪に備えなさいーそして、神が勝利をもたらされることを信頼しなさい」(21:31MSG)

※ 明日は10:25からYouTubeによるオンライン礼拝のみ。メッセージはニューホープ横浜の山口武春牧師。聖餐式を行います。

詩篇105:23-36

「主はご自分の民を大いに増やし彼らの敵よりも強くされた。」(105:24)

神は私たちを祝福してくださる神です。しかし、それは何の問題もなくなるということを意味しません。イスラエルの民はエジプトで大民族となりました。しかし、その結果、エジプト人に憎まれるようになってしまいます。しかし、神はエジプトで苦しむイスラエルの民の叫びを聞かれ、モーセとアロンを遣わします。

「彼らは人々の間で主の数々のしるしを行いハムの地でもろもろの奇跡を行った。」(27節)

神はモーセとアロンを用いて、エジプトに十の災害をもたらします。

「主はそのしもべモーセとご自分が選んだアロンを遣わされた。」(26節)

とあるように、神はその御業を行うために、あえて人を選び、人を「霊的不毛の地」(MSG)に遣わされま す。神を恐れ、神のみこころを行う主のしもべを用いたいと願っておられます。主の召しに応答していくことが出来ますように。

詩篇105:12-22

「彼のことばがそのとおりになるときまで主のことばは彼を錬った。」(105:19)

救いの御業としてまず語られているのはヨセフ物語です。ヨセフは最終的にエジプトの「総理大臣」(創世記41:42LB)に任命されます。そして、ヨセフを通してイスラエルの民は増え、大民族になります。(24節L B)しかし、ヨセフの人生は波乱万丈でした。聖書はさらりとこのように言います。

「神の時が来るまで、ヨセフは忍耐を試されました。」(LB)
神の御言葉が実現するまで、神の御言葉が私たちを試されるという世界があります。本当に神の御言葉を信じて生きているのか試され、練られるという世界があります。何があっても神の御言葉を握りしめ生きていくならば、ヨセフのように神の御言葉が実現する時が来ます。なぜなら、神の口から出る神の言葉は、必ず神のみこころを成し遂げ、神が言い送ったことを成功させるからです。(イザヤ55:11参照)

詩篇105:1-11

「主に感謝し御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。」(105:1) 

詩篇105篇は、神がなされた救いの御業が物語られています。私たちは、神の御業を全ての人々に伝えるように命じられています。

「神の不思議を音楽に翻訳しなさい。」(2節メッセージ)

とあるように、聖書は、神の御業を歌にして、人々に知らせるようにと言います。そのためには、

「神の臨在の印(サイン)に注意していなさい」(4節L B)

とあるように、いつでも主の臨在に敏感になり、主の臨在を求める必要があります。

「神の恵みは、全地の至るところで明らかです」(7節L B)

が、私たちは神の恵みの世界を忘れやすいからです。

「数えよ、主の恵み」という賛美があるように、主がなされた御業を思い出し、歌にし、人々に伝えていくことができますように。主は確かに今生きておられ、働かれています。

箴言21:17−26

「この者は一日中、自分の欲望に明け暮れる。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。」(21:26)

メッセージ訳では26節をこう訳しています。

「罪人はいつも彼らが持っていないものを欲している。神に忠実な者は、いつも彼らが持っているものを与えている。」

17節に、

「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」

とあるように、聖書は快楽主義に警鐘を鳴らしています。快楽を追求する人は人を羨むことしか知りません。しかし、神を恐れる人は喜んで人に与えます。そして、そのように生きることによって人は「充実した生活」(21節L B)を見出します。ですから、イエス様は言われました。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

私たちは神の御国、すなわち神のみこころがこの地になされることを求めて生きることが求められています。