箴言26:13-22

「薪がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ争いはやむ。」(26:20)

前半部分は、怠け者の言い訳。

「怠け者は「道に獅子がいる。広場に雄獅子がいる」と言う。」(13節)

そもそも何でもかんでも恐れていては何もすることはできません。このような言い訳をする理由は「面倒がる」(15節)からだと言います。恐ろしいことは、「彼らは大学の教授陣よりも自分たちの方が賢いと考える」(16節MSG)と言います。
後半は、噂話(ゴシップ)の問題です。噂話は、自分で広げることだけでなく、聞こうとすることも問題だと聖書は言います。それは「腹の奥に下って行く。」(22節)と警告しています。火に薪をくべないこと。争いがやむように、平和をつくる者となること。それが聖書が教える知恵です。

今日、十月三十一日は宗教改革記念日です。世界中のキリスト者がキリストにあって一致することができますように。

詩篇119:129-136

「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。」(119:130)

「ぺー」(פ)から始まるアルファベットの詩。

「戸」と訳された単語は「扉、門、開くこと」(פֵּ֖תַח)を意味します。ですから、七十人訳では「あなたの言葉の開示」と訳しています。メッセージ訳ではこう訳しています。

「あなたの言葉が開かれ、光を輝かせ、普通の人が意味することが分かりますように。」

聖書の御言葉が聖霊によって開かれる時、普通の人でも神が何を語っているのか理解することができます。多くの人が直面する問題は意味が理解できないと言うことではなく、生きることが難しいと言うことです。詩人の苦しみもそうでした。

「彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」(136節)

神が与えられる御言葉はすべて「奇跡(ミラクル)の言葉」(129節MSG)です。

詩篇119:121-128

「今こそ主が事をなさる時です。」(119:126)

「アイン」(ע)から始まるアルファベットの詩。
神の「時」(עֵ֭ת)があります。

詩人は抑圧者が社会的弱者を搾取する現実に心を痛め、公正と義に生きていました(121節)が、虐げられていました。詩人は自分の無力さを体験する中で主が行動を起こされることに希望を抱き、訴えます。

「時です!行動される。主よ!彼らはあなたの啓示を壊しています。」
詩人は主のしもべとして聖書の御言葉が理解できるように祈り求めます。

「すべての点であなたの規範に照らして考える知恵をお授けください。」(125節LB)

私たちが分別することができるように、聖霊様、助けてください。

詩篇119:113-120

「私の肉はあなたへの恐れで震えています。私はあなたのさばきを恐れています。」(119:120)

「サメク」(ס)から始まるアルファベットの詩。

月本先生は、「私の肉はあなたへの恐れで震えています。」という表現は、「律法が理念や観念としてではなく、血肉と化していることを示唆する」と言います。神の御言葉を単なる理念や観念として捉えるのではなく、信仰と生活の唯一の規範として、血肉と化することは重要です。「二心のある人たち」(113節)とはまさに、聖書を単なる理念や観念として捉える人たちのことを指していると考えられます。その結果、聖書から「迷い出る」(118節)と。しかし、詩人は「あなたの教えを愛する心を貫きます」(113節LB)と言い、祈ります。

「神よ。私を生かすと言われたお約束が果たされなかったと言われることがないようにしてください。」(116節LB)

箴言26:3-12

「自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(26:12)

箴言には賢い者の道と愚かな者の道が比較されています。今日の箇所は特に愚かな者に焦点が当てられています。私たちは悪に対しては注意をするのですが、愚かさに対してはあまり気にしない傾向があります。箴言は、悪と同じように愚かさも破壊的だと警告します。そして愚かさよりも注意すべきは、「自分を知恵のある者と思っている人」だと言います。キリスト教哲学者、パスカルは言います。「懐疑論について疑いながら話す人は少ない。」本当の愚かさは、自分が賢いと自惚れている人と言うことだと思います。聖書は言います。

「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリント8:2)

詩篇119:105-112

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(119:105)

「ヌン」(נ)から始まるアルファベットの詩。

「ともしび」(ネール・נֵר)はランプのことで、一端を高く尖らせた土器碗が用いられました。そのような意味で足下を照らす小さな光を指しているように思えます。一歩一歩を照らすような印象です。メッセージ訳はこのように訳しています。

「あなたのみことばによって私はどこに行こうとしているか見ることができます。みことばが私の暗い小道に光を放ちます。」

しかし、放たれる光はそこまで明るくないようです。今日と言う一日を生きていくのに十分な光だと思いますが、毎日、照らしていただく必要があります。ですから、聖書を分かった気にならずに、日々、聖書の御言葉に耳を傾けていきましょう。

「一日一日を力いっぱい生きなさい。」(マタイ6:34LB)

詩篇119:97-104

「どれほど私はあなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも私の思いとなっています。」(119:97)

「メーム」(מ)から始まるアルファベットの詩。
二つの節が感嘆詞「マー」(מָֽה)で始まります。

「どんなに愛しているか!」(97節)

「どんなに甘いか!」(103節)

メッセージ訳では詩人が愛しているものを「あなたが啓示されたすべて」と訳しています。神はご自身を啓示される神です。この大自然を見る時、神が確かに存在されることを私たちは意識します。これを一般啓示と呼びます。神はそれだけでなく聖書を通してご自身を啓示されました。これを特別啓示と呼びます。聖書は神の啓示の書であり、私たちを賢くします。聖書を愛する人は、いつも聖書の御言葉を思い巡ら(黙想)します。そして御言葉がどんなに甘いかを体験します。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇119:89-96

「私はどんな全きものにも終わりがあることを見ました。しかしあなたの仰せは実に広いのです。」(119:96)

「ラメド」(ל)から始まるアルファベットの詩。
神のみことばは永遠の御言葉であり、天において定まっています(89節)。メッセージ訳では次のように訳しています。「神よ、あなたがおっしゃることは行き、そしてとどまる、天と同じように永久に。」神のみことば以外に完全なものはありません。神のみことばに限界はなく、全てに及びます。神は言われます。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:10,11)

箴言25:21-26:2

「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」(25:21,22)

「敵を愛するならば、その人を友に変えることができる」と単純に考えるべきではないと思います。実際、イエス様が愛された敵は、イエス様を憎み、迫害し、十字架につけました。しかし、剣ではなくパンを与えることによって、水を与えることによって、人々が変えられてきたこともまた事実です。だからパウロはこの箇所を引用した後に、このように勧めています。

「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)
聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

詩篇119:81-88

「たとえ煙の中の皮袋のようになっても私はあなたのおきてを忘れません。」(119:83)

「カフ」(כ)から始まるアルファベットの詩。
「煙の中の皮袋のように」と言う比喩的表現はよく分かりませんが、危機的情況を訴えていると言われます。詩人の苦しみが滲み出ている祈りの詩です。大事なのは、それでもなお、「あなたのおきてを慕い求めます」(83節LB)と言う詩人の姿勢です。詩人は言います。

「私の目はあなたのみことばを慕って絶え入るばかりです。私は言います。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と。」(82節)

どのような状況でも、神の御言葉を慕い、聖書を読み続けること、ここに希望があります。