詩篇136:1-12

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(136:1)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という言葉です。私たちが信じている神は「トーヴ」、善い神です。私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。しかし、この詩篇ではくりかえし「なぜならば、主の信実(へセド)は永遠だから」(私訳)と理由を述べます。私たちの神は善い神であり、永遠に信実なお方です。聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実(へセド)を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:3)

この「誠実」と訳されたことばが、「恵み」と訳された言葉と同じ言葉です。私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に信実を尽くし続けるお方です。このお方に感謝を捧げましょう!

詩篇135:13-21

「主よ。あなたの御名はとこしえに。主よ。あなたの呼び名は代々に至ります。」(135:13)

月本氏は今日の箇所をこう訳しています。

「ヤハウェこそは永遠にあなたのみ名、ヤハウェこそは代々にあなたの呼称。」

「ヤハウェ」という神の名はいわゆる英語で言うところのBe動詞で存在を意味します。自立自存。人の手によらず存在されるお方。聖書はこのヤハウェ以外の神々の存在を認めることはありません。神々と呼ばれるものは「人の手のわざにすぎない」(13節)と言います。使徒パウロも明確です。

「「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。」(1コリント8:4)

メッセージ訳は「神よ、あなたは永遠に時代遅れにはならない」と訳していますが、昔も今もこれからも、永遠に変わることはありません。今日からアドベント。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

箴言 29:1-9

「正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。」(29:7)

聖書が言う「義人」は、貧しい人の権利を認める人です。「神を信じない者は気にもかけません。」(LB)神を信じているならば、一人一人が偶然この世界に存在しているわけではないことを理解しているはずですから、弱い立場の人の存在を理解しようとするはずだと言うことです。それで、「正しいことをする王はしっかり治め、わいろを要求する王は国を滅ぼします。」(4節LB)私たちは、「調子のいいお世辞は罠」(5節LB)であることや、「愚か者と言い争ってもむだです。相手はかっとなり、感情をむき出しにして、こちらをさげすむだけです。」(9節LB)ということを知っておく必要があります。「愚か者はけんかの種をまき散らし、知恵のある人は事を丸くおさめます。」(8節LB)

詩篇135:1-12

「まことに私は知っている。主は大いなる方私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」(5節)

私たちが信じている神は、大いなる方、偉大なる神です。私たちの問題よりも大きな神です。私たちの思いをはるかに超えて偉大なる事をなされる神です。私たちは、自分たちで自分の神を造ってしまっていないでしょうか。人間が作る神は、「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神です。有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしかない存在です。まことの神は、聖書の神は、私たちを造られた創造主なる神です。無から有を生じさせる神です。たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。道が見えなくても、道を造ってくださる神です。私たちは、この大いなる方を、大いなる方として、認め、賛美しましょう!

詩篇134:1-3

「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」(2節)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールです。それは、牧師になるという意味ではありません。ウェストミンスター小教理問答書にもあるように、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」神に栄光を帰す生き方こそゴールです。神に賛美をささげる方法の一つは、手を上げることです。手を上げる理由は、いろいろあります。私たちが両手を上げる時、それは、降参する時です。ですから、絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を上げます。私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。神の前に両手を上げて、「主よ、臨んでください!」と叫ぶ時、実は、私たちは神を神として認めているのです。両手を上げて、神の栄光をあらわし、神を喜ぶことができますように。

詩篇133:1-3

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1-3節)

集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

箴言28:18-28

「自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。」(28:26)

自分の心に従って生きることを勧める人がいます。しかし聖書は、それは愚かな生き方だと言います。

「もしあなたが全てを知っていると思うなら、あなたは確かに愚か者です。本物の生存者(サバイバー)は他者から知恵を学びます。」(MSG)

新型コロナの感染拡大のため自粛生活が続いています。しかし、どんなに空間的に孤立していても、霊的に孤立しないように気をつける必要があります。キリスト者の完全は、互いの欠けを補い合うことであり、私たちは信仰の家族を必要としています。共に聖書の御ことばに耳を傾け、互いに祈り合う存在が必要です。成熟した大人として、自立することは大事なことですが、それは、自分を過信することとは違います。聖書は言います。

「自分に頼るのは愚かですが、神の知恵に頼れば安全です。」(LB)

詩篇132:1-18

「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福しその貧しい者をパンで満ち足らせる。」(14,15節)

イエス・キリストが「ここにわたしは住もう」とおっしゃられた場所、それが教会です。こう言われました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

二人でも三人でも、イエス・キリストのみ名によって集まるそのただ中に住むことを望まれました。その場所で、私たちを満ち足らせることを決められたのです。毎週日曜日、イエス・キリストのみ名によって集まることには、そのような意味もあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

ですから、教会は、この世界の希望です。

詩篇131:1-3

「まことに私は私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。」(2節)

LBは「乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめました。」と訳しています。これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況を現しています。私たちも神の臨在の中で、同じように満足することができます。これが神への完全な信頼へ導きます。実際に3節でこうまとめています。

「あなたもまた、今も、これからも、静まって主に信頼しなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導いてくださいます。ですから、今日も生ける神、主イエス・キリストの臨在を求めましょう。イエス様の臨在の中で私たちは本当の満足を得ることができます。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇130:1-8

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(5節)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。神の時に、神の方法で行なわれることを願うことです。私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。詩人は続けて言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

神の時は必ず訪れます。神は来られます。主を待ち望む者を、あふれるほど祝福するために来られます。最高の日は、まだ、これからです。