詩篇147:1-11

「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(147:11)

人は腕力で神を振り向かせることはできません。10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をひねるよりも簡単にねじ伏せられます。」

私たちはこの現実を飼い葉桶に寝かせられた救い主を見る時、気がつく必要があります。「メリー・クリスマス」と言う言葉の背後に理解する必要があります。人は人であり、神は神です。人は神にはなれません。しかし、神は人となられ救いを成就されました。ですから、神が喜ばれるのは、神を畏れ、神の信実の愛(ヘセド)に望みをおくことです。神のみを畏れ、神のみを信頼することです。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(MSG)

詩篇146:1-10

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

神以外に頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。…人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。失敗しながら、神に正されながら、私たちもまた今日、神にのみ信頼することを学びます。

箴言31:1-9

「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。」(31:4)

「王」という単語をメッセージ訳は「リーダー」と訳しています。リーダーがいつも酔っ払っていたら、ついていく人々は苦しむというのは、いつの時代も真理です。ですから聖書は言います。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

LBは、「そこには多くの悪が潜んでいるからです」と訳していますが、確かに、歴史の中でも酒にまつわる悲劇があったことは事実です。この問題への対処法として、聖霊に満たされることが挙げられていることは注目に値します。聖霊に満たされることが様々な悪から私たちを守ってくれることとなるからです。

詩篇145:13-21

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。」(145:18)

「まことをもって」は「アーメン」をもってと訳すこともできます。ですから、メッセージ訳ではこう訳しています。

「神はそこにおられる。祈るすべての人のために。本気で祈っているすべての人のために。」

祈りは単なる気休めではありません。本気で祈る、その祈りに神が答えてくださることを私たちは体験します。後のユダヤ教においてこの詩は日毎の賛美の祈りに用いられたと言います。タルムードには、この詩を日に三度口にする者には、来るべき世界で神の子となることが約束されています。興味深いことは、主の祈りと通ずる面がこの詩にあります。「聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」(21節)は「御名があがめられますように」(原意は「御名を聖とする」)と重なります。日々「主の祈り」を本気で祈ることにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

詩篇145:8-13

「主はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。」(145:9)

この詩篇はヘブル語のアルファベット順に始まる「アルファベット詩」で、ある学者は「主の栄光のABC」と表現しています。主なる神は天地万物を創造された神であり、造られたすべての被造物の上に憐れみを注がれるお方です。「いつくしみ深く」と訳された単語は「良い」(トーヴ)です。主なる神は、すべてに対して「良い」と言います。私たちは今、世界的な感染爆発(パンデミック)の中にいますが、この真理を手放してはいけないと思います。たとえ、今、そう感じられなくても神はすべてに対して良いお方です。

万事は益となります。

マイナスはプラスになります。

神は良い神であり、良いことを行われる神です。

そして、恵み深い神の思いやり、憐れみは、全ての被造物に注がれています。

今日はクリスマス礼拝。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇145:1-7

「代は代へとあなたのみわざをほめ歌いあなたの大能のわざを告げ知らせます。」(145:4)

LBではこう訳しています。

「それぞれの時代に生きる人々が、その子どもたちに、神のすばらしさを伝えていきますように。」

私たちは次世代に、神の素晴らしさを伝えていく責任があると言います。子どもたちに、神の素晴らしさを伝える責任は、この時代に生きている私たちにあると言うのです。どのようにして次世代に神の素晴らしさを伝えていくことができるのでしょうか。まず第一に、私たちは祈ることができると思います。そして、次世代に伝えていくために、工夫する必要があると思います。自分たちの心地よいスタイルを押し付けるのではなく、次世代に伝えていくことができる方法を考え、挑戦していく必要があります。私たちもまた、そのようにして、前の時代の人たちから伝えていただいたということを心に留めていくことができますように。

箴言30:24-33

「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、企んだりしたら、手を口に当てよ。」(30:32)

協会共同訳では「愚かにも自ら高ぶっているなら、手を口に当てよ。」と訳していますが、自らを高めることは愚かなことであり、自らを高めるために愚かなことを行うことは、まさに、「乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。」(33節)ことです。私たちは、自らを高めることに心を向けるのではなく、イエス・キリストを高めることに心を向ける必要があります。いつもイエス・キリストの御名が高められるように献身していく時に、何か良いものがそこから生まれてきます。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)高ぶる思いがあるなら、手を口に当て、静まり、へりくだる時も大切です。

詩篇144:9-15

「幸いなことよ。主を自らの神とする民は。」(144:15)

「ヤハウェを神とする民は幸いだ」というのは、祝福の宣言です。人は結局のところ、何かを「神」として生きています。現代は「神」という言葉は使いませんが、ある人は「お金」を神とし、ある人は「快楽」を神とし、その神々に自分を捧げて仕えています。自分が何に一番時間と心を費やし、何に一番影響を受けているかを吟味すれば、自分が仕えている「神」がなんであるかが自ずと分かります。ヤハウェなる主を神として生きている人は祝福されている、幸いだと聖書は言います。もちろん、この詩は個人というよりも「民」とあるように共同体が意識されています。個人個人がヤハウェを神とするのですが、共同体として、ヤハウェを神とするところに大きな祝福があります。地域教会という共同体は当然ですが、私たちが国家的なリバイバルを祈り求める理由がここにあります。

詩篇144:1-8

「わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を戦のために私の指を鍛えられる方が。」(144:1)

神は私たちを鍛えられるお方です。神は試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、私たちがそれらを乗り越えていくことを通して信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練を受けなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることを私たちは皆経験から理解することができると思います。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「戦いが起こると、主は、弓を引く私の腕を強めてくださいます。」

私たちは自分の力で乗り越えたと思いやすいのですが、乗り越える力も神が与えてくださった…。

「神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。」(1コリント10:13LB)

詩篇143:1-12

「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。」(143:10)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。神はいつくしみ深い方ですから。また、聖霊なる神が導いてくださる平らな地は、祝福の道です。なぜなら、神の私たちに対する計画は「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)だからです。聖霊はその著書である聖書をもって私たちを祝福の道へと導かれることも心に留めたいと思います。