「このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」(30節)
織田昭師はこう言います。
「イエスを目の前にして、『悪魔だ』という激しい拒否反応を示した。これはしかし、神の救いの手を見た時の、罪の中に居座りたい者の必死の逆襲なのです。このまま自分の主権と主体性を守りたい。このままでいい。その時、神の霊は悪魔に見える。無気味なベルゼブルの手に見えるのです。『私に触るな。このまま、そっとしておいてくれ』と。」
問題はイエス様の言葉とその御業の中に「何を見るか?」ということです。
この箇所が私たちに伝えていることは、イエス・キリストは「まあまあいい人」とはならないということです。
「神の御国」をもたらした方か、危険な気が狂った人かのどちらかでしかありません。
私たちは、自分の生き方を変えたくないと遠ざかるか、神のあわれみに応答してひざまずくかです。
今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。