1コリント 8章

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」(8:6)

申命記6:4にシェマと呼ばれるユダヤ人が今も毎日祈る祈りの言葉があります。

聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。

ヤハウェなる神は、唯一の神であり、唯一の主であると言います。

使徒パウロは今日の箇所で、

唯一の神を父なる神とし、

唯一の主を主イエス

として綴っています。

聖書の神は三位一体なる神、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の、唯一のお方です。

1コリント 7章

「世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。あなたがたが思い煩わないように、と私は願います」(7:31,32)

イエス様は言われました。

…みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない…」(マタイ13:22)

世の思い煩いが実を結ばないものにします。

それで聖書は何度も「思い煩わないように」と言います。

思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。

いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。

この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在の世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)

私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。」(35節)

1コリント 6章

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(6:20)

ギリシア哲学の霊肉二元論の影響で、私たちは霊を至高のものと考え、肉体を軽視する風潮があります。

しかし、聖書は私たちのからだもキリストの十字架の死と言う代価を払って買い取られたものだと言います。

さらに聖書は言います。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(19節)

ですから、私たちはこの肉のからだも管理する必要があります。

適度な食事、適度な運動、適度な休養を心がけることは聖書的です。

1コリント 5章

「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」(5:8) 

教会は罪の問題を放置するわけにはいきません。

聖書は明確に「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、 
酒におぼれる者、奪い取る者」(11節)をよしとしてはいけないと言います。

教会は聖書の価値観に生きる場所であり、聖書の価値観を失ってしまうならば、教会として存在する意味はありません。

いつの時代も世俗化の波に翻弄されてしまう傾向はありますが、教会は聖書の価値観を死守しなければなりません。

私たちは、「悪意と邪悪」が教会を支配しないように、「誠実と真実」を大切にする必要があります。

1コリント 4章

「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。」(4:4)

聖書は明確に、人は一度死ぬことと、死後に裁きを受ける事が定まっていると言います。(ヘブル9:27)

死んだら終わりではなく、死んだ後に、最後の審判があります。

大事なことは、最後に裁くのは自分ではなく、主なる神であるということです。

ですから、パウロは言います。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」(5節)

聖書がはっきり約束していることは、イエス・キリストが再び来られること、そして、すべてを裁かれることです。

私たちが知る由もないことも、神はすべてをご存じです。

ですから、裁く役割は主にお委ねし、愛する役割に生きましょう。

1コリント 3章

「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(3:11)

教会の土台はイエス・キリストです。

福音はイエス・キリストに関するもの(ローマ1:3)であり、私たちはキリストのもの(23節)です。

この土台の上に、私たちはキリストの教会を建てる働きを任されています。

私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(9節)

つまり、私たちは神と共に働く教会の建設者であり、同時に神によって建設される教会でもあります。

このバランスが大事です。

私たちは常に、教会であることと、教会になることの両方の状態にあります。

これは素晴らしいことであり、私たちに希望を与えます。

教会を建て上げていく中で、自分たちが神が建てている教会の素材そのものであることを知ります。

そして、私たちは棟梁の指示のもとで変革されていきます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1コリント 2章

「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」(2:4)

パウロは哲学の中心地、アテネで人々を説得しようとして思うような結果を得ることができず、打ちひしがれてコリントに行きました。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(3節)

打ち砕かれたパウロの宣教活動を通してコリントの教会が生まれました。

パウロは自分の力ではなく、神の力ということが痛いほどわかっていたのだと思います。

私たちは、思います。

こんな弱い自分に、欠点だらけの自分に何ができるのだろうか?と。

しかし、弱いからこそ、欠点だらけだからこそ、自分ではない、神の力だということが現されると言うのです。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」(5節)

私たちの信仰は、神の力に支えられる信仰です。

1コリント 1章

「知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」(1:20-21)

新約聖書はギリシア語で書かれました。

当時の地中海世界ではギリシア語が公用語であり、ギリシア哲学を初めとする、人間を讃える文明がそこにありました。

しかし、人は人であり、神は神です。

人が神を作ったのではなく、神が人を造られました。

ですから、人が神を完全に理解することはできません。

人は神の啓示、聖書が必要です。

聖書のメッセージの中心は十字架にかかられたイエス・キリストです。

神が人となって、私たちの罪のために十字架にかかられると言うメッセージは人間が創作できる範囲を超えています。

ローマ 16章

「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」(16:19)

メッセージ訳ではこう訳しています。

すべての「良いもの」が「本物」であることを確認しながら、賢く行動してほしいと思います。口先だけの悪に騙されてはいけません。

残念ながら、いつの時代も甘い言葉で人を騙そうとする人たちがいます。

注意点は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。」(18節)

ということでしょうか。

今日は教会の暦では昇天日。

使徒1章にあるように使徒たちが見ている間にキリストが天に上げられたことを覚える日です。

それは、キリストが天においても地においてもすべての権威が与えられた(マタイ28:18)と言うことを覚える日です。

私たちの主、キリストのために生きることができますように。

ローマ 15章

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」(15:7)

パウロがこのローマ人への手紙を書いた目的でもありますが、異邦人中心になっていたローマのキリスト者たちに、ユダヤ人のキリスト者たちを受け入れるように、パウロはお願いしています。

その根拠として、

キリストがあなたがたを受け入れてくださった

と言うことを伝えます。

私たちもまず、キリストが自分を受け入れてくださったことを覚える必要があります。

そして、キリストにあって受け入れ合う姿勢が必要です。

そうするならば、神の栄光が表されます。

イエス様も言われました。

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

残念ながら、教会はいつの時代もこのイエス様の戒めを守れずにいます。

主よ、あわれみたまえ!