ガラテヤ 2章

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(2:20)

イエス・キリストの十字架の御業が私たちが生きる原動力です。

私たちが神のために生きるのは、キリストと共に十字架につけられているからです。

キリストが私たちのために死んでくださり、聖霊によって私たちのうちに住んでくださるので、私たちは信仰による歩みをするのです。

ゴードン・フィーという聖書学者はこう言っています。

「キリストが私のうちに生きておられる」という意味は、キリストの霊、聖霊なる神様がキリストを信じる者のうちに生きておられるということです。

キリストを心の中に歓迎する時、人は「三位一体なる神」を体験します。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ガラテヤ 1章

「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、」(1:15,16)

「御子を私のうちに啓示することを良しとされた」という意味は、神はご自身をイエスとしてパウロに啓示されたということです。

あたかも神がパウロにこう言っているようです。

パウロ、

あなたはずっと勘違いしてきた。

あなたは十分

知性的な神学を持っていた。

あなたはとても熱心だった。

しかし、

大事なことはわたしにあなたを愛させること、

祝福させること。

あなたの役割は

わたしを信じ、

祈り、

従うこと。

わたしは

イエスにあって

わたし自身をあなたに示した。

聖書の神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

神は、キリストを通してご自身を私たちに現されます。

2コリント 13章

「私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。」(13:9)

パウロの祈り、それは第一に、彼らが「どんな悪も行うことのないように」(7節)ということでした。

パウロは自分の評判よりもコリントの教会の人たちのことが気がかりでした。

9節をLBではこう訳しています。

自分たちは弱く軽蔑されても、あなたがたがほんとうに強くなってくれれば嬉しいのです。最大の願いと祈りは、あなたがたが霊的に整えられた者になってくれることです。

パウロの祈り、それは彼らが「霊的に整えられた者」「完全な者」となることでした。

訳された単語は「成熟」や「回復」を意味します。

つまり、パウロの祈りは人々の霊的な回復、教会のリバイバルでした。
パウロは言います。

私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。」(8節)

不可能は挑戦となり可能となります!

2コリント 12章

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロは

パラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」(4節)

と言います。

天国は本当にあります。

キリストを信じる者は、この地上を去る時、パラダイスに引き上げられます。

パウロはその体験のゆえに、高慢にならないように「肉体に一つのとげ」(7節)が与えられたと言います。

それが何であるか分かりません。

しかし、身体的な問題であったようです。

パウロはその身体的な問題がとりさられるように祈り求めましたが、神の答えは、「神の恵みは十分」ということでした。

私たちの弱さを通して神の力が現されるからです。

自分の力でないと分かるならば、全ての栄光は主のものとなるからです。

2コリント 11章

「ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(11:15)

パウロはコリントの教会で、パウロを批判している人たちのことを、「偽使徒」、「人を欺く働き人」、「キリストの使徒に変装している」と呼んでいます。

残念ながら今も異端(カルト)と呼ばれるグループが活発にキリスト教会の牧師たちのことを批判し、キリスト者を騙そうとします。

その大きな特徴の一つは、自分たちのリーダー(教祖)こそが「再臨のキリスト」だと称すことです。

私たちは絶対に「再臨のキリスト」と自称する人を信じてはいけません。

キリストは再び来られますが、そのようには来られません。

また、既存の教会の牧師たちを批判ばかりする人たちも信じてもいけません。

もちろん人間ですから欠点はあります。

しかし、神のしもべたちを攻撃するのはサタンのしもべです。

2コリント 10章

「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。」(10:7)

この十章から突然語調が変わるので、二章で出てくる「あの手紙」(3節)が、この十章以下の内容ではないかという説もあるほどです。

コリントの教会の問題は、使徒パウロの権威に挑戦した人たちがいたことにあります。

顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる」(1節)、

パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」(10節)

とパウロを揶揄していました。

ダビデはサウル王を神の「油注ぎ」のゆえに自分で手を出すことはしませんでした。

神がその場所に立てられた指導者を神の油注ぎのゆえに尊重する姿勢は大切です。

2コリント 9章

「この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。」(9:13)

この箇所の背景には、コリントの教会が、経済的に困難な状況にあるエルサレムの本部教会を支援するために献金を捧げるということがあります。

これによって、コリントのキリスト者の福音に対する誠実さが証され、主への賛美へと導かれるという内容です。

ギリシア哲学の霊肉二元論の影響で献金は物質的なもの、俗的なものとして軽視されやすい傾向があると思います。

しかし、聖書は献金を福音に対する私たちの誠実さを表す行為であると言います。

ですから、聖書は言います。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(7節)

2コリント 8章

「私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。」(8:8)

8章は献金について記されています。

献金は命令ではなく、あくまでも自発的に捧げるものです。

ここでパウロはマケドニアの教会の熱心さ、経済的に厳しい中にあっても神の働きのために捧げた例を挙げています。

マケドニアの教会の例を伝えた理由は、コリントの教会の人の愛を確かめるため、刺激するためだと言います。

もちろんそれはキリストに対する愛です。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(8:9)

キリストの愛に応えることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2コリント 7章

「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。」(7:6)

使徒パウロは、

マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。」(5節)

と言います。

使徒パウロのような霊的巨人のような人でも意気消沈してしまうことがあると言います。

その悩みの種の一つがコリントの教会に送った手紙のことでした。

それはコリントの教会を悲しませるような厳しい手紙でした。

結果的にパウロはこう言います。

神様は時々、罪を断ち切り、永遠のいのちを求めさせるために、私たちに悲しみを与えます。そのような悲しみを嘆いてはなりません。しかし、この世の人の悲しみは、真の悔い改めに導く悲しみではないので、永遠の死を食い止める力がありません。」(10節LB)

マイナスは必ずプラスになります。

神は「気落ちした者を慰めてくださる神」です。

2コリント 6章

「私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(6:16)

教会は生ける神の宮です。

私たちの間に神は住われます。

神の宮が意味することは、天の領域と地の領域が重なる場所です。

教会は、この地上において天の領域が重なる場所です。

私たちはこの意識をもって集まる必要があります。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

という約束はもともとバビロンに捕囚されていたユダヤ人(エゼキエル37:27)に与えられた預言でした。

しかし、神が約束した終わりの時代の神の宮はエルサレムではなく、教会だと言うのです。

本当の捕囚はバビロン捕囚ではなく、死の捕囚でした。

キリストの死と復活によって、死の捕囚は終わりました。

神の民は、今、罪と死の捕囚から父なる神の御腕に帰る時だと言うのです。