2コリント 5章

「というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。」(5:14)

使徒パウロの動機、それは「キリストの愛」でした。

彼は自分の利益のためではなく、

キリストの愛に動かされて行っているのです」(LB)

と言います。

キリストの愛を知った者は、もはや自己中心的な生活を送ることはできません。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」(15節)

キリストのうちにあるものはすでに「新しい創造」(17節)に属す者となっています。

キリストの大使」(20節)です。

ですから、みことばに生きようとします。

聖霊に満たされることを求めます。

なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。

2コリント 4章

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(4:16)

メッセージ訳では

だから私たちはあきらめない(ギヴアップしない!)

と訳しています。

イエス・キリストの十字架と復活を通して、

すべてのマイナスはプラスになる

という信仰をもつことができれば、私たちはあきらめずに前進することができます。

もっとも「あきらめない」本当の理由は7節にあります。

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

キリストを信じる者の内に、キリストが聖霊なる神として住んでくださるのです。

聖霊は3:18にあるように、栄光から栄光へと主の似姿へと、私たちを日々、造り変えてくださいます。

イエス・キリストを信じる者には、この栄光の希望があります。

2コリント 3章

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(3:18)

「変えられていきます」とあるように、誰でも変わることができます。

しかし、それは自動的ではありません。

あくまでもキリストとの関係の中で、私たちは変えられていきます。

日光を浴びるならば私たちの皮膚は変化します。

同じように、日光を浴びるようにキリストの臨在の中に身をひたすならば、私たちの姿は変えられていきます。

日々聖書を読み、祈り、黙想し、共に集まって礼拝を捧げることによってキリストの臨在の中に身をひたす中で、私たちは「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。