1テモテ 5章

「私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。」(5:21)

先入観やえこひいきは取り扱われる必要があります。

なぜなら神にえこひいきはないからです。

福音が全世界に広がるために、まず、ペテロの偏見が取り扱われる必要がありました。

ペテロは言います。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、」(使徒10:34)

パウロもはっきりとこう記しています。

神にはえこひいきがないからです。」(ローマ2:11)

ヤコブの手紙は、明らかに初代教会の時代にえこひいきの問題があったことを示唆します。

ですからこう訴えっています。

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。」(2:1)

1テモテ 4章

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」(4:6)

牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙の一番の関心ごとは、健全な教えです。

テモテが対処しなければならなかったことは、不健全な教え、「悪霊の教え」(4:1)でした。

それは、3節にあるように、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じるようなものでした。

聖書に反するそのような教えが蔓延していた理由は、「俗悪で愚にもつかない作り話」(7節)が横行していたからです。

そんなエペソの教会をどうしたらよいか、パウロがテモテを指導した方法はこれです。

教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(13節LB)

私たちは聖書のことばに養われる必要があります。

1テモテ 3章

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」(3:5)

聖書は、教会の奉仕よりも家庭を優先することを勧めています。

家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。

5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。」(8節)

家族を顧みないような人は、「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)とまで、聖書は言います。

神を第一にすると言うことは、家族を蔑ろにしていいと言う意味ではありません。

そもそも、夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。

そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと聖書は言います。

びっくりした!

二週間前の月曜日、亀のジェニーの水槽を洗おうといつものように容器を傾けて水を流していた時、見覚えのない繭のような白いものが水と一緒にころころと転がっていくのが見えました。

この二日前にも水槽を洗っていたはずなのに水の汚れが今回は激しいな、と思ってはいたのですが突然気づいたのです。

これは、卵だ!!

ジェニーが卵を産んだのだ、と。

ところが一瞬の感激もつかの間、無情にも卵は水と一緒に排水溝の小さな穴の中へと落ちてしまったのです。

せめて写真を撮りたかった、、、

ジェニーを飼い始めて約一七年。

いったいいつ大人になるのかと思っていましたがついにその日が来たのだと感激しました。

そこですぐにネットでゼニガメの産卵について調べてみました。

そこには「だいたい五歳くらいで産卵する」との情報が。

そっか、、、

ジェニー随分のんびり大人になったのね、、、

飼い主に似たのかしら、、、

亀でさえこんなに個体差があるのですから人ならばなおさら。

それぞれのペースで焦らず、確実に大人の信仰者へと成長していけますように!

(小山晶子牧師夫人)

1テモテ 2章

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(2:4)

神のみこころ、それはすべての人が救われて、真理を知るようになることです。

神は言われます。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばない ─神である主のことば─。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル18:32)

それで神はイエス・キリストをお与えになりました。

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。」(6節)

イエス・キリストの十字架はすべての人を贖うのに十分な代価でした。

ですから、今、キリストを信じる者は一人として滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。

そのために、パウロは宣教者、使徒、教師として任命を受けた(7節)と言います。

宣べ伝える人がいなければ、聞けないし、信じることも、呼び求めることもできません。

全ての人に福音を伝えなければならないということです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1テモテ 1章

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1:15)

エペソの教会はアポロと言う雄弁な伝道者によって始まりました(使徒18:24)。

その後、パウロの宣教によって、力強く広まりました(使徒19章)。

パウロはこの教会をテモテに託しました。

エペソの教会が混乱していたことは、この手紙からも読み取ることができます。

頭を抱えていたテモテにパウロが伝えたのはこの真理でした。

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」。

人を罪から救うのは私たちの役割ではなくキリストの役割です。

私たちの役割は、救い主イエス・キリストを指し示すことです。

2テサロニケ 3章

「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。」(3:1)

信仰生活において祈りは重要です。

祈りのない信仰生活はあり得ません。

パウロはまず福音宣教のために祈って欲しいと要請しました。

祈りなくして宣教はないからです。

そして、

ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。」(2節)

と祈りを要請しました。

福音は「良い知らせ」ですが、

残念ながら、

すべての人が、主を愛しているわけではありませんから」(2節LB)。

聖書は、

主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」(3節)

と言います。

ですから、

私たちは主に期待し、

祈りの手をあげ続けます。

互いのために祈ることを通して、

主は私たちの心を導いて、

神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいます」(5節)。

2テサロニケ 2章

「不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。」(2:9,10)

「不法の者」(偽キリスト)は、しるしと不思議によって人々を騙すと言います。

しるしと不思議は聖書のストーリーの中にありますし、クリスチャン・ライフの一部です。

しかし、イエス様は、

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」(マタイ24:24)

と警告します。

問題は、

自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったから

と言います。

神の啓示である聖書、そして、救い主イエス・キリストから離れたしるしや不思議は惑わしでしかないと言うことです。

2テサロニケ 1章

「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」(1:10)

聖書は明確に、イエス・キリストが再び来られること(再臨)を伝えています。

燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れる」(7節)と言います。

その日は神の裁きの日ですが、信じる者たちにとっては賛美の歌声をあげる喜びの日、「休息を与えてくださる」(7節LB)日となります。

そして、私たちが伝えた神のことばを信じ抜いたあなた方は、主と共に生きる者となるのです。」(10節LB)

今も、世界中であらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っている兄弟姉妹たちがいます。(4節参照)

しかし、キリストが再び来られる時、すべては報われます。

1テサロニケ 5章

「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。」(5:27)

この手紙を、すべてのクリスチャンが読むようにしてください。これは主の命令です。」(LB)

とありますが、すべてのクリスチャンが聖書を読むようにするようにと言うのが主からの命令です。

聖書を読むことから、信仰生活は始まります。

聖書は言います。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」(9-11節)

聖書を読んでいるならば、互いに励まし合い、助け合います。

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝します。

これが神のみこころです。