1テサロニケ 4章

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(4:18)

パウロが言う「これらのことば」とは、15節以下の「主のことば」のことで、この世の終わりの「主の来臨」(キリストが再び来られる)に関することばです。

特に16節と17節のことばです。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

「引き上げられ」るので、一般的に「携挙」と呼ばれます。

信仰によって生きるということは、現実逃避とは違います。

イエス・キリストは再び来られ、すべてのものは完全に神に服従します。

その日がいつかは分かりません。

しかし、その日を期待し、希望に満たされて日々歩みます。

1テサロニケ 3章

「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」(3:10)

パウロにとってテサロニケの教会は彼のいのちそのものを分かちあっている存在でした。

パウロはテモテから教会の近況を聞き、

あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。」(8節)

と言います。

パウロは苦難の中にあった彼らを心配していました。

「悪魔に誘惑されて信仰を奪い取られ、これまでの苦労が水の泡になったのではないかと心配だったからです。」(5節LB)

コロナ禍が長期化する中で、世界中の教会が心配し、苦闘し、祈りの中にあります。

私たちは私たちができることをしている。朝に夕に、祈っている…」(MSG)

世界中のキリスト者たちの信仰が守られるように祈りましょう!
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1テサロニケ 2章

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」(2:19,20)

テサロニケのキリスト者は迫害の中にありました。

パウロは、彼らの受けている苦難をキリスト者のしるしのように言います。

兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。」(14節)

パウロは、人々から拒絶され、辱められていた彼らに、どんなに彼らの存在が自分にとっての喜びであり、誇りなのかを伝えます。

時として、神にとってだけでなく、他のキリスト者にとっても、自分が喜びであり、誇りであるということを知る必要があります。

1テサロニケ 1章

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。」(1:6,7)

苦難の中で、多くの試練や悲しみにも挫けず、喜びをもってみことばを受け止めることができるのは、聖霊の働き以外の何ものでもありません。

そして、これがギリシア地方全体のキリスト者の模範となったと言います。

キリスト者はキリストに倣う者です。

ギリシア哲学の中心地で、エピクロス派の快楽主義に倣うのではなく、ストア派の宿命論に倣うのではなく、キリストに倣う者になったということは、聖霊の働き以外説明することはできません。

福音は、「ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って」(5節)

人々に届きます。

ですから、私たちは聖霊を求めて祈る必要があります。

コロサイ 4章

「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」(4:2)

祈りと感謝は切り離すことはできません。

パウロはこの手紙の初めにもこう言っています。

私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」(1:3)

パウロは、パウロがしているようにコロサイの教会の人に祈りと感謝を勧めます。

まさに、神の臨在に入るパスワードは「ありがとう」(感謝)だからです。

聖書は祈りに力があることを私たちに教えています。

神は私たちの祈りに振り回されるお方ではありませんが、私たちの祈りを用いられるお方です。

パウロは「私たちのためにも祈ってください」と祈りを要請しています。

パウロは、祈りの力を知っていました。

聖書は言います。

神に感謝を捧げるとりなし手として、忠実に祈りましょう。」(TPT)