ヨハネ 21章

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

新約聖書に福音書は四つありますが、イエス様が行われたことがすべて記されている訳ではありません。

ヨハネが言うように

世界中が本であふれるほど書いても、それでもまだ足りないと思います」(LB)。

福音書の内容が選ばれた理由をヨハネはこのように述べます。

これらのことを特に書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるため、またそう信じていのちを得るためです。」(31節LB)。

イエス様こそ聖書が約束してきたメシアであり、三位一体なる神の御子であると信じるため、そして、いのちを得るため。

「信じる」と訳された単語は「信じ続ける」と言う意味があります。

福音書を正しく読むならば、イエス様を信じ、そして、信じ続けます。

今年も共に聖書を読むことができたことを感謝します。

ヨハネ 20章

「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」」(20:29)

トマスは他の弟子たちと一緒にいるべき時にいなかったため、復活したイエス様に出会うことができませんでした。

トマスは自分のことは棚上げして言います。

「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25節)

イエス様が再び来られた時、今度はトマスはいるべき場所に一緒にいたので復活のイエス様に出会うことができました。

イエス様はトマスに言います。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

トマスは信仰告白をもって応答します。

「私の主、私の神よ。」(28節)

イエス様は

「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29節)

と信仰を求められています。

ヨハネ 19章

「イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」」(19:11)

ピラトは王の王、主の主である神の御子、イエス・キリストに対してこう言いました。

「私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」

ピラトは、自分が権威を持っていると思い込んでいましたが、神の許可なくして何の権威もないことを知りませんでした。

興味深いことにイエス様はこう付け加えられます。

ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。

イエス様を引き渡した者とはユダのことでしょうか。

それとも大祭司カヤパのことでしょうか。

暗闇の力、サタンのことだと思います。

だから十字架は暗闇の力、サタンへの断罪、裁きの時となり得たのです。

十字架は神の勝利です。

ヨハネ 18章

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」(18:36)

ピラトは当時のローマ帝国を代表しています。

イエス様は「神の国」を代表しています。

イエス様はピラトにこう言いました。

「わたしの国はこの世から出たものではありません。」(直訳)

イエス様がおっしゃられたことは、「神の国の価値観」は「この世の価値観」とは違うということです。

時として私たちは「この世の価値観」が絶対で、揺るぐことのないもののように見えてしまう時があります。

しかし、ローマ帝国も崩壊したように「この世の価値観」は絶対ではありません。

しかし「神の国の価値観」は絶対です。

昔も今もこれからも変わりません。

今も全世界へと広がり続けています。

神の国の価値観を優先できますように。

ヨハネ 17章

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(17:3)

「永遠のいのち」とは、単なる長さの話ではありません。

なぜなら、悪い状況が永遠に続くなら、それは地獄だからです。

永遠に生きたいと思えるような質が伴わなければ意味がありません。

そのような永遠の質は父なる神とイエス・キリストを知ることだとイエス様は言われました。

「永遠」と訳された単語は「時代」とも訳される単語ですので、「来るべき時代のいのち」と訳してもいいかもしれません。

「来るべき時代」とは、この世界が終わり、すべてが新しくされる神が完全に治められる神の御国です。

この世界が終わる前から父なる神と子なる神イエス・キリストとの関係の中で生きているなら、神の御国の価値観の中に生きているならば、「来るべき時代のいのち」、永遠のいのちが与えられていると言えます。

今年最後の日曜日です

2021年最後の日曜日となりました。

目の前にある一日一日を積み上げていたら一年が経ってしまった、という印象です。

新型コロナの影響がこんなに継続するとは考えていませんでしたし、長期的な計画が立てられない、もしくは立ててもその通りにできないことにもどかしさを感じた人も多かったと思います。

2020年の全国の自殺者は統計によると21081人、神奈川県内だけで1269人(一日3人)。

2021年はさらに多くなるとのこと。

何のために、誰の為にこんなに頑張って生きなければならないのか。

その先に希望があるのか。

私も、もしイエス様に出会っていなければ、神様の愛を知らなかったらどうなっていただろう?と思います。

これを読んでいる全ての方へ。

かみさまはあなたのことを愛しています。

「イエス様、わたしのこころにお入りください」と言えばイエス様はその瞬間にあなたのこころにお入りくださり、光を灯してくださいます。

そしてどんなことも乗り越える力を必ず与えてくださいます。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 16章

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)

イエス・キリストは私たちのためにこの地に生まれ、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、復活し、天に昇り、今、全能の父なる神の右に座しています。

イエス・キリストが栄光の御座に今着座している証拠が、助け主、聖霊が信じる者たちのうちに遣わされていることです。

三位一体なる神の第三位格、聖霊の内住は、子なる神、イエス・キリストがいつも生きていて私たちのためにとりなしをしておられる証拠です。

聖霊はキリストを信じる者の内に住んでくださり、私たちを助け、励まし、慰め、導いてくださる神です。
今日は今年最後の主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 2:8-20

「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」(2:10)

この世界のどんなオーケストラよりも、それは素晴らしい音楽だったと思います。

もし、この時の天使たちのオーケストラが動画で残っていたらと誰もが思うと思います。

おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」(13,14節)

さらに驚くことは、この天使のオーケストラを聞いたのは、宮殿にいた特権階級の人たちではなく、社会からのけ者にされていた羊飼いたちだったということです。

神の愛が届かない人はいません。

神は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

すべての造られた者に福音を宣べ伝えていくことができますように。

ルカ 2:1-14

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

降誕劇の時、知的障がいをもった子どもが宿屋の主人の役をしました。

彼のセリフは「部屋はありません!」だけでした。

彼は教えられたように「部屋はありません!」と言いました。

すると、ヨセフとマリア役の子どもたちが上手にがっかりした演技をしました。

その姿を見た彼は言いました。

「でも、ぼくのうちには部屋があるから、ぼくの家においでよ。」

イエス・キリストはすべての人の心の扉をノックしています。

誰でもイエス様を歓迎するなら、その人の心の中に来てくださいます。

飼い葉桶がどれだけ綺麗だったかわかりません。

私たちの心も飼い葉桶のような心であったとしても、イエス様を信じ受け入れるならば、イエス様はその場所に来てくださいます。

このクリスマス、一人でも多くの人の心にイエス様が来てくださいますように。

ルカ 2:1-7

「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(2:4)

ヨセフはダビデの家系だったので、「身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するため」(5節)ベツレヘムに行きました。

そして、それは神のご計画の中にありました。なぜなら、ミカ書にこう預言されていたからです。

ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(5:2)

ヨセフたちは住民登録のためにベツレヘムに行きました。

しかし、神には別の計画がありました。

それは、救い主がベツレヘムで、預言されたように誕生させることでした。

私たちも関係がない理由で行ったところで、別の目的があったことを発見することがあります。

神は今も生きて働かれておられるからです。