ルカ 2:1-7

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。」(2:1)

神のタイミングにはいつも驚かされます。

キリストが生まれる、この時に、ローマ皇帝アウグストゥスは住民登録をするように勅令をだし、人々を登録をするために自分の町に帰るように動かしました。

しかし、実は、すべては神のご計画の中にあり、神の主権によってアウグストゥスもまた動かされていたということです。

歴史を英語ではHistory、神(His)のストーリー(Story)と呼びますが、歴史には神の指紋がついています。

キリニウス(2節)という人物の言及はここだけにしかありませんが、キリストの誕生との関連で名前が出てくることに意味があるのだと思います。

私たちは皆、偶然誕生し、意味もなく存在しているわけではありません。

私たちは神のご計画の中で、正しい時、正しい場所に生まれ、存在しています。

神の目的に生きることができますように。

ルカ 1:76-80

「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。」(1:80)

「その霊は強くなり」という後に、「荒野にいた」とあります。

荒野での生活のために神がバプテスマのヨハネの霊を強くされたのか、荒野で彼の霊が強くされたのか、どちらかというよりも、その両方の意味が込められているのかもしれません。

そもそも、どうしてヨハネが荒野にいたか、その理由もわかりません。

エッセネ派との関係を示唆する学者たちもいますが、確かではありません。

一つはっきりしていることは、神がバプテスマのヨハネをその働きのために整えられたということです。

キリストが生まれてくる前に、神がバプテスマのヨハネを整えられたということを私たちは覚えたいと思います。

ルカ 1:68-79

「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、」(1:78)

曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ」というイメージはとても魅力的です。

これは朝の光が差し込む表現ですが、私たちが待ち望むキリストが来られるイメージです。

これは私たちの神の深いあわれみによる。」ということも私たちは忘れてはいけないと思います。

暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(79節)ために、イエス・キリストはこの地に生まれてくださいました。

このメッセージは今も真実です。

イエス・キリストのご降誕をお祝いするということにはこのことが含まれているということを私たちは覚えたいと思います。

収録を終えて

先週水曜日、キリスト教テレビ番組「ライフ・ライン」収録のため西船橋に行ってきました。

コロナ前最後のコンサートから丸二年、本当に久しぶりのリラとしての活動。

今回は宮脇と二人、2リラです。

30分の番組の中で6曲賛美することとなり打ち合わせなどを終え無観客での「ライフ・ラインの集い」の収録が始まりました。

教会でも配信のためカメラを前にして賛美すること、話すことも多かったので多少は慣れていると勝手に思っていたのですが合計7台のカメラ、正面に置かれた5つのかなり眩しいLED照明、初めてお会いするスタッフ、会場となった教会の牧師先生、ライフ・ライン番組内でこれまでは画面越しに見ていたメッセンジャーの先生方を前にとにかく想像以上に緊張感漂う現場でした。

アップでは撮らないでください、というのが精一杯でした、、、。

「恥は我がもの栄光は主のもの」という言葉になぐさめを受けつつ、こっそり放送日を待ちたいと思います。

(小山晶子牧師夫人)

ルカ 1:67-79

「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。」(1:72)

ザカリヤは救い主の誕生を預言し、彼の息子がその道備えをすることを預言します。

幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。」(76,77節)

ザカリヤのポイントは、神が契約を覚えておられるお方であるということです。

神の御約束に変わることはありません。

神は信実なお方です。

今日はアドベント4週目、クリスマス特別礼拝の日です。

神がご自分の契約を覚えておられたことを、私たちはこの世に誕生された神のひとり子、イエス・キリストに見ることができます。

共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 1:67-68

「ほむべきかな、イスラエルの神、主。」(1:68)

聖書の神は、イスラエルと契約をし、ご自身を現された「ヤハウェ」(主)なる神です。

ユダヤ人たちは「ヤハウェ」という神の名が出てくると神の名を呼ぶことを恐れ、「主」という意味の「アドナイ」と読みました。

つまり、ゼカリヤは「ヤハウェ」なる神をほめたたえたということです。

なぜなら、主はその御民、イスラエルを顧みてくださったことを知ったからです。

そのしるしが、彼の息子、バプテスマのヨハネの誕生でした。

彼は生まれてくる彼の息子が「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。」(16節)と御使いガブリエルから告げられていました。

もっとも、神の救いの計画はイスラエルだけでなく、すべての人に対するものでした。

それは、バプテスマのヨハネが指し示す、神の御子、イエス・キリストの誕生によって示されます。

ルカ 1:65-67

「主の御手がその子とともにあったからである。」(1:66)

バプテスマのヨハネの誕生は皆に恐れを抱かせ、ユダヤの丘陵地域全体に広がりました。

近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。」(65節)

そして、二つの反応がありました。

一つは、聞いた人たちの反応。

これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。」(66節)

もう一つは父親のザカリヤの反応。

聖霊に満たされて預言した。」(67節)

これらの反応は神が不思議をなされたことに対するふさわしい反応です。

私たちは語り伝えるだけでなく、心にとどめ考えます。

そして、聖霊に満たされて神の言葉を語ります。

聖霊なる神様、私を満たし、みこころのままに私を用いてください。

ルカ1:59-64

「すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。」(1:63)

近所の人たちや親族は父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。

しかしエリサベツは、「名はヨハネとしなければなりません」と言いました。

あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言われましたが、その名は御使いガブリエルが神殿でザカリヤに与えた名でした。

ザカリヤもはっきりと、「その子の名はヨハネ」と書きました。

人々はその名に驚いただけでなく、その時、「ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」ので驚きました。

ザカリヤは九ヶ月以上話すことができませんでした。

彼は聖霊に満たされて神の御業をほめたたえます。

ルカ 1:57-58

「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」(1:57)

エリサベツがバプテスマのヨハネを産んだということはもちろん素晴らしいことですが、一番の喜びは、神が大きなあわれみをかけてくださったことだったと言います。

近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。」(58節)

聖書は言います。

喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(12:15)

泣く者とともに泣くよりも、喜んでいる者たちとともに喜ぶ方が難しいと言われます。

神は大きなあわれみをかけてくださるお方です。

神のあわれみをともに喜ぶことができますように。

ルカ1:45-56

「マリアは、三か月ほどエリサベツのも とにとどまって、家に帰った。」(1:56) 

マリアが親類のエリサベツのところに 行った時、エリサベツはすでに六ヶ月だったと言います。(36節)

それから、三 ヶ月ほどとどまったという意味は、はっきり書いてあるわけではありませんが、ヨハネが誕生するまで一緒にいたということが示唆されているのかもしれません。

神はマリアにバプテスマのヨハネの誕生の証人という特権を与えることによってさらなる励ましを与えられました。

誕生までの三ヶ月間、エリサベツとゼカリアと一緒に過ごすことを通して、マリアもイエス様の誕生に向けて心の備えをすることができたのだと思います。

神がなさることは、すべて時にかなって美しいものです。