ルカ 1:45-55

「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」(1:50)

「主を恐れる者に」という意味を私たちは考える必要があります。

神の絶大な力は、私たちを容易く滅ぼすことができます。

偉大なる神の御前では誰もが取るに足りない者であり、どんな私たちの努力も神の目には小さなものです。

私たちはこのことを覚え、健康的な恐れを神に対して抱くべきです。

そうでなければ、神が私たちを愛していること、神の恵みが満ち溢れていること、神の憐れみがとこしえまでもあることを、当たり前のように考えてしまうからです。

偉大なる神が、こんな私たちを選んでくださり、愛してくださっているという事実を、私たちはどれほど感謝しているでしょうか。

クリスマス・マーケット

いよいよ今週土曜日から二日間、本郷台駅前広場でクリスマス・マーケットが開催されます。

栄区内にある6つすべての教会が協力し、合同で行う初めての試みでどんな風になるのか緊張と楽しみでそわそわしていています。

昨年に引き続き今年のクリスマスシーズンも思っていたような活動ができない状況でしたが、マイナスに見える状況を神様はプラスへと導いてくださいました。

時間は16時から19時までです。

天候が守られ、無事開催することができますようにお祈りください。

そしてぜひご参加ください。

栄シャローム福音教会は二日間とも熊本名物「いきなり団子」を、日曜日はワーシップチームが賛美とバイオリンの演奏をする予定です。

メディアチームも準備段階から加わってくださって「チーム・シャローム」一丸となって頑張っています。

このデイリーを読んでくださっている全ての方がこの「チーム・シャローム」の一員です!

私たちすべてを通して神様の栄光が現わされることを祈りつつ。

(小山晶子牧師夫人)

ルカ 1:45-55

「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。」(1:52)

神は逆転が好きなお方のようです。

実際私たちはこのことを歴史の中でも頻繁に目にします。

ベルリンの壁が崩れる日を誰が想像することができたでしょうか。

アパルトヘイトが撤廃される日を誰が想像することができたでしょうか。

圧制が崩壊する時、民は喜びます。

だからマリアは神が権力者を引き降ろし、はみだし者たちを引き上げると歌いました。

神は飢えた者たちに食べさせ、裕福な者たちを何も持たせずに帰らせると歌いました。

まさに神はこの世界に神の国と神の義をもたらそうと行動されています。

イエス・キリストは王宮のベッドの上ではなく、貧しい家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられたことを私たちは覚える必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 1:46-55

「私のたましいは主をあがめ」(1:46)

46節から55節までは、マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる歌です。

「マグニフィカット」とは「あがめ」という単語のラテン語訳です。

マリアはまず、彼女の「たましい」は主をあがめると歌いはじめました。

ヘブル語で「たましい」はその人の存在すべてを意味する単語です。

つまり、彼女の存在すべてが主をあがめると歌ったのです。

マーヴァ・ドーウンという学者はこう言っています。

彼女は目立たない存在でしたが、神は彼女を慈愛に満ちた眼差しで見守っていました。 彼女は、すべての世代が彼女を称賛することになっても、その栄光は神のものであり、神は驚くほど大きいお方であり、神こそあがめられるべきお方であることを、すべての人に知ってもらいたかったのです。

ルカ1:39-45

「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」(ルカ1:43)

御使いガブリエルがマリアのところに現れてイエス様を宿すことが伝えられました。

不安の中にあったマリアにガブリエルは親類のエリサベツのところに行くように伝えます。

マリアは急いで、エリサベツを訪ねます。

エリサベツの言葉はガブリエルのメッセージを確信させるものとなりました。

エリサベツはまだそんな片鱗もないのに、マリアが子どもを宿していることを知っていました。

マリアの声を聞いて、胎内で子どもが躍り、聖霊に満たされたからです。

そして、マリアに言います。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)

天使が訪ねて来るという体験を誰もがするわけではありませんが、私たちは誰でも神の約束を聖書の御言葉を通して読むことができます。

ヨハネ 15章

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(15:16)

私たちは自分が選んだ、自分にイニシアチブ(主導権)があると思ってしまいやすいですが、実は、神様が選んでくださった、神様の側にイニシアチブがあると言います。

一人でも多くの人々がイエス様を信じることができるために私たちを選ばれたと言います。

そのためにイエス様の御名によって祈るように私たちを選ばれたと言います。

私たちのこの地上での使命、選ばれ任命されたことを忘れることなく生きることができますように。

ヨハネ 14章

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)

イエス様は明確に言われました。

イエス様を通してでなければ、誰も父なる神のみもとに、すなわち天の御国に行くことはできないと。

人は、イエス・キリストを信じる必要があります。

だから、使徒ペテロもはっきりと伝えました。

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

このクリスマス、改めて天使の伝えたメッセージに耳を傾け、このメッセージを一人でも多くの人に伝えていきたいと思います。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)

ヨハネ 13章

「イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」」(13:7)

イエス様が突然、弟子たちの足を洗いはじめたので、ペテロは面喰らったのだと思います。

当時、足を洗うのは奴隷の仕事とされていました。

サンダルで歩いていたのですから、足もかなり汚れていたことが容易に想像できます。

イエス様が何をされているのか理解することができませんでした。

私たちの人生に起こる様々な出来事も、理解できないことばかりです。

イエス様は力ある神のはずなのに、どうしてこんなことが起こるのだろうか。

イエス様は自分のことを愛されているのならどうしてこんなことが起こることを許されるのか。

イエス様の答えは今も同じです。

わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。

イエス様が求められていることは理解することではなく、信頼することです。

ヨハネ 12章

「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」(12:35,36)

「闇」は神のいない世界を象徴しています。

神を無視して生きる人生はまさに「闇の中を歩く」人生です。

イエス様は「光の子どもとなれるように」と語りました。

「光の子ども」となれる方法は、ただイエス・キリストを信じることだと言いました。

イエス様はご自身を光として語られました。

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(8:12)

イエス・キリストを信じる者の内にはイエス様と同じ三位一体なる神である聖霊が住んでくださいます。

聖霊は聖書の御言葉をもって私たちの道を照らしてくださいます。

ヨハネ 11章

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(11:5)

イエス様はマルタとその姉妹マリアとラザロを愛しておられたと聖書は言います。

ここで使われている愛は「アガペ」で、神の愛を表す時に用いられる単語です。

「無条件の愛」と訳されることもあります。

イエス様はマルタとマリアとラザロが何かできるから愛していたのではなく、その存在を愛しておられたということです。

2節で

このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで

と説明していますが、そのような行動をとったからイエス様が愛されたのではないことを示唆するためか、ここでマリアの名前は伏せられ、「その姉妹」とだけ記録されます。

マリアの行動はあくまでもイエス様の愛に対しての応答だったということです。

神様は私たちを愛しておられます。

それがクリスマスが私たちに伝えているメッセージです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。