詩篇 8篇

「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」(8:1)

「主よ。私たちの主よ。」とありますが最初の「」が新改訳では太文字になっています。

これは別の単語が使用されていることを表しています。

最初の「」は神の名前、「ヤハウェ」が使われています。

ですから、文字通り訳すならば、「ヤハウェ。私たちの主、」となります。

「ヤハウェ」は神の名前です。

英語で言うところのBE動詞から派生した語で、存在を意味します。

ご自身で存在されるお方(自立自存)という意味があります。

何かによって存在したら「ヤハウェ」とは呼べません。

ですから、「創造主なるお方」という意味があります。

「私たちの主」というのは肩書きです。

主と言うのは、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。

万物の統治者であるヤハウェ、そのご性質のすばらしさは、全地に満ちています。

詩篇 7篇

「私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方主の御名をほめ歌います。」(7:17)

不当な中傷や非難を受けたときに、聖書が教える解決方法は、義なる神に賛美を捧げることです。

賛美することによって、状況の上に上ることができます。

ダビデが行き詰らなかった理由がここにあります。

彼は真っ暗闇の洞窟の中で、義なる神を賛美しました。

使徒パウロも、行き詰らなかったのは、義なる神に賛美することができたからです。

彼は真夜中の牢獄の中で神を賛美することができました。

いと高き方(エルヨーン)は「正しい審判者」(11節)です。

ですから詩人は歌います。

ああ主よ、すべての悪を根絶やしにし、心の底から主を礼拝する者を祝福してください。正しい神である主は、人の心の奥底まで見抜き、いっさいの動機と思いとをお調べになります。」(9節LB)

詩篇 6篇

「主は私の切なる願いを聞き主は私の祈りを受け入れられる。」(6:9)

スポルジョンという牧師は「涙は、液体の祈りで解釈はいらない」と言います。

感情的というのは、よく、問題視されることがあります。

しかし、涙の祈りはイエス様もなされた聖書的な方法です。

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

前向き、信仰的、肯定的なことばが大事だとわかっていても、つい、弱気な、否定的な言葉が口から出てきてしまう時があると思います。

しかし、この詩人のように、最後には、信仰の告白をもって閉じるのが大事だと思います。

LBではこう訳しています。

訴えも聞き届けられた。主は私の祈りにすべて答えてくださる。

詩篇 5篇

「私の王 私の神 私はあなたに祈っています。」(5:2)

LBではこう訳しています。

私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。

聖書は、「神だけに頼る」ということを私たちが学ぶ必要があることとして語っています。

誰にも理解されていないと感じる時、誰にも相談できない時、それは、本当に寂しい時です。

しかし、神は私たちがただ本気で、真剣に神にだけ向かうことができるように、あえてそのような所を通されるというのです。

イエス・キリストだけが、本当に自分の王、自分の神になっているでしょうか。

それとも他に、自分の王、自分の神になっているような人物はいないでしょうか。

誰かが自分の王、自分の神になっているならば、必ず、どこかで挫折します。

神を神とすることが大切だからです。

「あなたは悟らなかったのか。理解者がいなかったから、あなたは本気で真剣にわたしに頼ったのだ。」と語られる時が来ます。

詩篇 4篇

「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。」(4:3)

2節から推測すると詩人は辱められていたことが分かります。

生きていく中で辛いことの一つは、自分の評判を落とすようなことを言われたり、自分の存在を否定するようなことを言われたりすることだと思います。

残念ながら、根拠もなく責められるということは、私たちの人生の中では起こりうることです。

しかし、詩人は祈りを聞いてくださる主の存在に目が開かれます。

神の恵みの中に生きる人を、神は特別に扱ってくださるということに目が開かれたのです。

月本先生は「神に信頼しない人は神に祈らない。」と、祈りに導かれていることこそ神に信頼を寄せている印だと言います。

「祈るという行為のなかで、自らが神の大いなる権能のなかに生かされていることを感じ取ることができる。そこに何物にもまさる『心の喜び』が与えられ、『安らぎ』が訪れる。」と言います。

詩篇 3篇

「しかし主よあなたこそ私の周りを囲む盾私の栄光私の頭を上げる方。」(3:4)

ダビデが神をどう認識したか、三つ見ることができます。

第一番目にダビデは、神は私の周りを囲んでくださる盾であることを認識します。「盾」が意味しているのは「守り」です。神は私たちを守ってくださるお方です。

第二番目にダビデは、神は私の栄光と認識します。「栄光」と訳された原文のヘブル語「カボード」は「名声」「誉れ」と言った意味が含まれます。ダビデは自分に本当の価値を与えてくれるのは神だけであるということを認識しました。

第三番目にダビデは、神は私のかしらを高く上げてくださる方であるということを認識しました。戦いの勝利を意味するとは言われますが、それだけでなく、落ち込んだ頭を持ち上げてくださるお方だと認識したということでもあると思います。

詩篇 2篇

「なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。」(2:1,2)

使徒ペテロとヨハネはユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、イエスの名によって語ることも、教えることも、いっさいしてはならないと命じられました。

その時、彼らはこう言います。

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4:19)

そして釈放された後に、仲間たちのところに行き、共に祈ります。

その時に引用したのが今日の箇所です。

彼らの祈りは

あなたのみことばを大胆に語らせてください。

癒やしとしるしと不思議を行わせてください。

とまとめられます。

新しい年、御言葉と癒やしとしるしと不思議を主に祈り求めていきましょう。
今日は今年最初の主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 1篇

「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。」(1:1)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

「幸いなことよ」はイエス様が山上の説教(マタイ5章)でも用いられましたが、祝福の宣言です。

社会に横行する策略に与しないで、損得勘定に基づく生き方に立たないで、神の御言葉を心に刻み、神の信実に生きることを決断した人こそ、祝福された幸いな人だと聖書は言います。

その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(3節)

「そのなすことはすべて栄える」と訳された単語は、「事柄がうまくいくこと」を意味します。

主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。」(2節)とは、声に出して思い巡らすという意味です。

新しい年、日々、聖書の御言葉を声に出して読み、思い巡らし、神の奇跡を体験しましょう。