詩篇 59篇

「私の力よ。私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。」(59:9)

ダビデが逆境の中で発見したことの一つは、人生の力、力の源である主を見続けることでした。

「見つめ続けます」(Strength of my life)という賛美があります。

見つめ続けます。あなたを今日も。

けっして離れない。イエス様。あなたを。

私の日々の力となって、力となってください。

私の今日の力となって、力となってください

ダビデは主なる神を見続けることを通して力を体験しました。

私たちもイエス様を見続けるならば、ダビデのように歌うようになります。

私はといえば、あなたの力が私の喜びの歌となります。日が出るたびに、あなたの愛の歌は空気に満ちます。あなたは私の栄光の砦、苦難の日の拠り所だからです。私の力、私は喜びをもってあなたへの賛美を歌います。私の拠り所、喜びをもってあなたの歌を歌います。私の救い主、喜びをもって、あなたの信実の愛の歌を歌います。」(16,17節TPT)

詩篇 58篇

「力ある者たちよ。おまえたちは本当に義を語り、人の子らを公正にさばくことができるのか。」(58:1)

テレビや新聞で報道される国内外の事柄から家庭や学校など身近な所に至る出来事まで、私たちは自分の価値観で物事を判断し、裁く傾向にあると思います。

多くの場合、自分は正しいと思い、正義感に燃えてさばくのですが、果たしてそれは本当に正しいのでしょうか。

自分の育ってきた環境だけがすべてではなく、視点も様々です。

私たちは何かを判断する場合、もっと謙遜になるべきです。

私たちは神ではありませんから当然不完全であり、間違いも犯します。

そんな欠けのある私たち人間が、自分の判断は絶対に正しい!と思うことに関して聖書は警告します。

58篇の最後はこう締めくくられています。

まことに、さばく神が地におられる。

公平に裁くことが出来るのは神だけです。

この神を恐れましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

わたしたちはみな

戦争が始まってしまいました。
いのちを物のように扱い、攻撃の命令を下す為政者の姿にサタンの高笑いが聞こえてくるようです。

今回のロシアによる軍事行動は、突然「戦争」がすぐそばに迫ってきたような恐ろしさを感じた人も多いと思います。

どうなれば終わりなのか、そもそも終わるのか、世界はこれからどうなっていくのか、、、新型コロナで疲弊した心に、この出来事はさらなる痛みと失望を私たちにもたらしました。
私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる(二コリント5:10)」のです。

地上でどんな特権階級にいようと関係ありません。いつの日かわたしたちは一人残らず主の前に立ちます。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けばその刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)」

裁くのは主であり私たちではありません。

私たちには破れ口に立って祈るという役割があります。

ウクライナの平和のために。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 57篇

「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいは、あなたに身を避けていますから。私は、滅びが過ぎ去るまで、御翼の陰に身を避けます。」(57:1)

「御翼の陰」は、雛を守る親鳥の姿を、主なる神に重ねた比喩的表現です。

神殿の至聖所にあった契約の箱の上にあったケルビム像の広げた翼との関係も考えられます。

いずれにしても、神の臨在の中が安全な場所ということです。

神の臨在の中に身を避ける者を神は助けてくださいます。

「神は、天から助けを送って、私を救い、私を踏みつける者どもを辱められます。神は、恵み(信実の愛)とまこと(真実)を送ってくださいます。」(3節)

感謝と賛美をもって今日も主の臨在の中に入っていきましょう。

神は信実の愛と真実を送ってくださいます。

主の臨在の中で今日も祈りましょう。
「主よ、私をあわれんでください。(キリエ・エレイソン)」

詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。」(56:10)

「みことばをほめたたえます」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではありません。

聖書のみことばが神のみことばであるがゆえに、神をほめたたえるという意味です。

私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神のみことばです。

みことば信仰とは、感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させるということです。

ですからパッション訳ではこう訳しています。

私は主を信頼する。そして、主を賛美する。私は神のみことばを信頼する。そして、主を賛美する。」(10節)

神を信頼し、神のみことばを信頼する人生は、

「何も恐れません」(11節)

なぜなら、

私にわかっているのは、ただこの一事、神が味方だということだけです。」(9節LB)
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

詩篇 55篇

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(55:22)

この詩は、ダビデが、彼の息子、アブシャロムに反乱を起こされたときに書いたと言われます。

彼の側近であったアヒトフェルが、この時、彼に敵対しました。

ダビデにとって、息子だけでなく、側近の反乱は、精神的にもショックだったと思われます。

しかし、そんな状況の中で彼は立ち止まり言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。

神に重荷をおゆだねする時、平安が来ます。

ですから、使徒ペテロも言います。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)

主は言われます。

信じて従う者が足をすべらせたり、倒れたりするのを、主が黙って見ておられるはずがありません。」(LB)

詩篇 54篇

「見よ。神は私を助ける方。主は私のいのちをささえる方。」(54:4)

どんな時でも、どんな状況でも、神が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。

「いのち」と訳された単語は、私たちの存在そのものを意味します。

私たちの存在そのものが神にかかっていることを私たちは意識する必要があります。

詩人は「見よ」と、問題ではなく、私たちを助け、支えてくださる神を見るように訴えます。

神に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。

私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。

神を見上げるならば、神が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

詩篇 53篇

「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」(53:1)

聖書は断片的でなく、全体の文脈を通して読む必要があります。

今日の箇所に確かに「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚か者が言うことです。

実際、「無神論者」になるには、相当な信仰が必要です。

ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。

また、神を否定したからといって、問題が解決するわけではありません。

多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。

「あなたが信じない「神」とはどういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じられない「神」を答えることでしょう。

聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛され、私たちを救われる三位一体なる神です。

詩篇 52篇

「勇士よ。なぜおまえは悪を誇りとするのか。神の恵みはいつもある。」(52:1)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。

悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。

しかし、神の恵み、神の信実の愛(へセド)はいつもあるということに気づく必要があります。

この詩の表題はこのようになっています。

「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と告げたときに」。

ダビデは、サウル王から命を狙われていました。

アヒメレクの所に逃げたことをドエグが密告しました。

ダビデは「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。

しかしダビデは歌います。

私は世々限りなく神の恵み(へセド・信実の愛)に拠り頼む。」(8節)

「今はまだそう思えないかもしれません。

それでもなお「神の信実の愛はいつもある」と信仰宣言をしていくことが大切です。

トンビとカラス

最近カラス数が多くなった気がしませんか?

もしかすると私自身歩く機会が増えたせいでそう感じるだけなのかもしれませんが、、、

先日も電線に数十羽のカラスがびっしり。

無言で同じ方向を見つめている姿はちょっと怖いくらいです。

その視線の先にはトンビが大きな翼を広げ、旋回しています。

縄張り争いをしているようで緊張感が伝わってきます。

教会のちょうど裏手はこれまで完全にカラスの縄張りだったのですがここのところちょくちょくトンビを見かけるようになってきました。

トンビもカラスも同じような生態ですがそれゆえに仲良く一緒に、とはいかないようです。

こんなに広い場所なんだから共存すればいいのに、、、

三月にはトンビの巣作りが始まるようなので、まだまだ熾烈な縄張り争いは続きそうです。
それでもトンビとカラスの争いの方がまだましかもしれません。

相手を殺すまで戦ったりはしませんから。
どうか戦争になりませんように。

主の平和がこの地にもたらされることを切に祈ります。
(小山晶子牧師夫人)