詩篇 51篇

「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。私を、あなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で、私を支えてください。」(51:10-12)

ダビデ王は罪を犯した時、救いの喜びを失いました。

罪は神との関係を壊すからです。

罪のゆえにダビデ王は神の臨在を感じることができなくなりました。

罪は喜びを奪います。

しかし、希望はあります。

もし、自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9LB)

罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。

「仕えることを喜ぶ霊」とは、自発的に神に仕える思いです。

神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 50篇

「神を忘れる者どもよ、さあ、このことをよくわきまえよ。」(50:22)

詩篇50篇は、天地を証人とする主なる神の法廷です。

神は完全に公正な裁判官となって、判決を下されます。天も、神の正しさを証言します。」(6節LB)。

イスラエルの民の問題はいけにえではありません。

わたしが求めているのは、真心からの感謝、わたしへの誓いを果たすことである。苦難のとき、わたしを頼みとしてほしい。そうすれば、わたしは助けの手を差し伸べ、あなたがたはわたしをほめたたえるだろう。」(14,15節LB)

16節から具体的な罪状が挙げられますが、問題の根底にあることは、神が

わたしがおまえと等しい者だとおまえは思っていたのだ。」(21節)

と指摘している点です。

人は神と等しくはありません。

人が神になることはありません。

「神を忘れた」ことが人の罪です。

私を喜ばせる人生とは、恵みに感謝し、常にわたしと共に正しい道を歩むことを選ぶ生き方だ。」(23節TPT)

詩篇 49篇

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

詩人は

どんなに華やかな生涯を送ろうと、人は動物と変わりなく死を迎えるのです。」(20節LB)

と言います。

昔も今も信仰者が直面する悩みは同じです。

神を恐れない人が幸せそうに見えてしまうのです。

死んでしまえば、金の力により頼むことはできなくなります。金を持って死ぬことはできないのですから。」(14節LB)

自らの富や力に信頼して生きることの愚かさを詩人は歌います。

彼らは金に信頼し、財産を誇っています。しかし、王に負けないくらい裕福な彼らも、兄弟の罪を帳消しにすることはできません。罪の赦しは金では買えないのです。たましいはあまりにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。世界中の金をかき集めても、ただ一人分の永遠のいのちも買い与えられません。地獄から救い出すことはできないのです。」(6-9節LB)

だからキリストの十字架が必要です。

詩篇 48篇

「神よ。私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。」(48:9)

私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。

しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。

「神の宮」とは、神がおられる場所です。

もちろん、現代の文脈では教会を意味すると思います。

ただ、現在のように教会堂に集まることが出来ない状況においては、日々の祈りの場所と理解することもできると思います。

大事なことは神の恵みを数えることです。

宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったと言われます。

二五種類ほどの病気をもっていて、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。

眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。

苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。

詩篇 47篇

「まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。」(47:7)

巧みな歌でほめ歌を歌え」と訳されてきた単語を新改訳2017では「ことばの限りほめ歌を歌え」と訳しています。

原文は「マスキールを歌え」です。

「マスキール」はいくつかの詩篇の表題になっています。

「理解する」という意味がありますが、わかっていません。

音楽的な指示だとも言われます。

いずれにせよ、神を全地の王として、最善を尽くして、神を褒め歌うようにと命じられていることは確かです。

王が意味することは、次節にあるように、

神は国々を統べ治めておられる。」ということです。

人々は自己中心的な人間の統治者たちに疲れ果てています。

私たちの願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることです。

神は神の御子が十字架にかかり死ぬことを通して全地の王となられました。

神を全地の王としてほめ歌を歌うことは、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46篇

「主は、地の果てまでも戦いをやめさせる。」(46:9)

神の御国、神の統治は平和です。

この世の終わりに、戦いは終わります。

主なる神が、地の果てにいたるまで戦争をやめさせるからです。

国々は怒り狂い、わめき散らします。」(6節LB)

とあるように、神を認めない地上の国々は戦いに戦いを繰り返します。

しかし、神がその御声を発せられる時、地上の国々は静められます。

その日は遠くありません。

主なる神は言われます。

やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)

武装放棄を迫る預言的な言葉です。

それと同時に、今を生きる私たちにも語られます。

ジタバタするのをやめて、神を神として認めるようにと。

あなたの不安を放棄しなさい。静まって、私が神であることを認識しなさい。」(TPT)

詩篇 45篇

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。」(45:6,7)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。

「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリストは「神」ということです。

また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。

聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

記念CD収録

昨日からいよいよ開拓四〇年、献堂二〇周年の記念CD収録が始まりました。

「主がここまで私たちを導いてくださった」という意味の『エベン・エゼル』。

この言葉を受け止め、ワーシップチーム、メディアチーム、皆さまの祈りとあわせて心ひとつに完成を目指していきたいと思います。

収録場所は栄シャローム福音教会の礼拝堂。

全六曲のオリジナル賛美を収録予定です。

フルバンドで三曲、アコースティックで二曲、アカペラ一曲という構成です。

二週にわたって楽器の部分を収録し、その後歌の部分を収録します。

神様にできるだけ良いものをお捧げしたいと願い、この数週間練習を重ねてきました。

主に賛美を捧げることを大切にしてきたシャロームのDNAが次世代へと引き継がれていくことを心から願います。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 44篇

「自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

詩人は先祖たちが語る神の御業を耳にし、神の御手が彼らを救ったことを悟ります。

もちろん、旧約聖書を読むならば、先祖たちが剣をもって戦った事実は変わりません。

しかし、あくまでも神の御業だったことを詩人は確信します。

それで、詩人は祈り、告白します。

私の王、私の神よ。あなたの民に勝利をもたらしてください。その力と御名の威光によらなければ、敵を踏みにじることはできません。」(4,5節LB)

もちろん、私たちがすべき分があります。

しかし、主なる神によらなければ、本当の勝利はありません。

私たちはそのことを認め、すべての栄光を主にお帰しする姿勢が大事です。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 43篇

「わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(43:5)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に置きます。

私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。

そして、未来に不安を感じています。

プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。

このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。

ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

神を待ち望め。

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。

私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。

問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。

神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。