詩篇73篇

「まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに。」(73:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。

28節の「幸せ」も同じです。

詩人が語る土台的真理は「神は良いお方」。

私たちの人生には理解できないことがたくさんあります。

この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱してしまったとしても、この土台的真理「神は良いお方」を心に留める必要があります。

苦しみの中で私たちはまったく逆に考えてしまいます。

「もし、神が力あるお方ならば、どうしてこんなことが起るのか?」

詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

ことしのうめ

以前ここで書きましたが、一昨年、近所の方が教会の梅の木の剪定をしてくださいました。

今年献堂20周年ということはこの梅の木もここに移植して20年になるのですが、毎年伸びてしまった枝を適当な時期に適当にばっさばっさと切っていました。

小さなスペースに遠慮がちに植わっていた南高梅の木。

でも今年は違います!

正しい剪定をしていただいた次の年はそこまで花は増えなかったのですが、二年目の今年は恐ろしいほどにつぼみがついているのです!

もう、ありとあらゆる場所に。

暖かい日が続いたからか一斉につぼみが開き、まるではなさかじいさんになった気分です。

正しい剪定ってこんなにも花や実に影響を与えるものだったのですね。

父なる神様も私たちに「もっと多くの身を実らせるために刈込を」なさいます。

刈り込まれ、何もかも失ったように感じても、主にとどまり続けるなら必ずたくさんの花を咲かせ、実を実らせることができます。

励まし合い祈り合いながら共に成長していくことができますように。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えるでしょう。」(72:11)

すべての王がひれ伏し仕える王、それがメシヤ、キリストです。

聖書は言います。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10,11)

ですから、この「王」こそイエスのことです。

彼は、身寄りのない者や貧しい者を援護します。弱っている者や困っている者を見ると、いても立ってもいられず、助け上げるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なものなのです。」(12-14節LB)

福音書に描かれるイエスの姿がここにあります。

イエスこそ王、メシヤです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 71篇

「しかし私は、絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美します。」(71:14)

詩人は思わぬ苦難に直面し、人々から神に見捨てられたとみなされてしまいます。

しかし、詩人は神の御業を思い起こして訴えます。

ああ神よ。私は一日中、あなたがしてくださった数々のことを思い起こしては、あなたを賛美し、栄誉をたたえています。私は年老いて体力も衰えています。どうか、お見捨てにならないでください。敵はひそひそと話しています。「神もあいつを見限ったのだ。もうじゃまは入らない。今度こそ、打ち倒すことができる。」ああ神よ、そんなに離れた所にいないでください。急いで来て助けてください。」(8-12節LB)

詩人が選び取った姿勢は私たちが模範とすべき姿勢です。

どんなことがあっても、あなたが助けてくれると信頼しています。あなたの栄光が拡大するために、私があなたを賛美することを止めるものは何もありません。」(14節TPT)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(70:4)

人が「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠でもあります。

使徒パウロがこのように言っています。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、キリスト者は、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。

神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

神を慕い求める人は、神の偉大さを体験します。

神がどれほど大いなるお方かを体験します。

詩篇 69篇

「しかし私は、主よ、あなたに祈ります。神よ、みこころの時に、あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(69:13)

詩人は逆境の中にありました。

詩人の訴えは深刻です。

彼らにさげすまれて、私の心は傷つきました。心はふさぎ込んでしまいました。一人でも、同情して慰めのことばをかけてくれる人がいてくれたらと思います。」(20節LB)

その中で詩人は、「私は、主よ、あなたに祈ります。」と、主に信頼することを選びます。

そして「みこころの時に」と、神の主権に自分の身を委ねます。

それはあきらめの境地にいたったという意味ではありません。

なぜなら、詩人は祈りの答えを期待しているからです。

私はあなたを呼び続けます、ヤハウェ!あなたは身をかがめて聞いてくださると知っていますから。今こそが恵みの季節ですから。あなたの私への信実な愛のゆえに私の祈りに対するあなたの答えは、私の確かな救いとなります。」(TPT)

詩篇 68篇

「神は立ち上がり、その敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。」(68:1)

出エジプトの時、荒野で宿営から出発する時、契約の箱が担ぎ上げられる時、モーセはこう祈りました。

「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」(民数記10:35)

神は立ち上がる神であり、悪しきものは滅び失せます。

イエス・キリストが十字架にかかられた時、実は、神は立ち上がられました。

神の不在を感じたカルバリの十字架で、暗闇の力、サタン、悪霊は、散り失せたのです。

私たちは、この十字架の福音を告げ知らせる必要があります。

「イエス・キリストは十字架で勝利をとられた。神は立ち上がり、敵は散り失せた。」

正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。」(3節)

とありますように、キリストを信じる者は、神に向かって歌い、御名をほめ歌います。

神の御前で喜び楽しみます。

詩篇 67篇

「神が私たちを祝福してくださり、地の果てのすべての者が、神を恐れますように。」(67:7)

神の民が祝福される時、すべての者が神を恐れるようになります。

神が神の民を祝福されるのは、諸国の民が皆、主なる神をほめたたえるためです。

そして、祝福はどんどんやってくるのです。地の果てのすべての民は神にふさわしい誉れを与え、畏れを抱きます。」(TPT)

聖書の神は祝福を与えてくださる神です。

だから詩人は祈ります。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。」(1節)

神の祝福を求めて祈ることは聖書的です。

神が私たちを祝福してくださることを通して、地の果てに住む人も、主なる神をあがめるようになるからです。

詩篇66篇

「神よ。まことに、あなたは私たちを試し、銀を精錬するように、私たちを錬られました。」(66:10)

詩人は、今まで味わってきた苦難を神からの試練として受けとめます。

ヘブル書にこういう箇所があります。

今、すべての訓練は、その時は苦痛に思えるが、後に人格の変革をもたらし、明け渡した者に義と平和の収穫をもたらす。だから、疲れた手を上げて祈り、礼拝することによって、弱さの中にあっても、強くなりなさい。そして、弱いひざを強くしなさい。あなたが神の道を歩み続けるとき、あなたのつまずきはすべて神によっていやされるのです。」(ヘブル12:11-13TPT)

すべての試練は喜ばしいものではありません。

神がどうしてこのような所を通ることを許されたのか、理解に苦しみます。

しかし、最後にはいつも、わたしたちを前よりも良くしてくれます。

良いものでわたしたちを満たしてくださいます。

マイナスは必ずプラスになります。

祈ってごらんよわかるから

言葉にならない想いの中で、この一週間を過ごしてきました。痛みと悲しみ、憎しみと怒りが交差し、理不尽が満ちあふれる世界の中でこれからいったいどうやって生きていけば良いのでしょうか。
いま私の頭の中をぐるぐるまわっている賛美はこれです。

♪きみはかみさまにネ
はなしたことあるかい?
心にあるままを打ち明けて
天のかみさまはね
きみのことなんでも
わかっておられるんだ
なんでもね
だから空仰いで
「かみさま!」とひとこと
祈ってごらんよわかるから
小川の辺でも人ごみの中でも
広い世界のどこにいても
ほんとのかみさまは
いまもいきておられ
お祈りにこたえてくださる♪

幼稚園のころから歌っていたこの賛美が、きょうもわたしを励ましてくれています。
(小山晶子牧師夫人)