詩篇 130篇

「主よ。深い淵から私はあなたを呼び求めます。」(130:1)

詩人は深い淵、絶望のどん底にいました。

そんな中で、彼は主を呼び求めました。

詩人は言います。

「私は神に祈る – 私の人生は祈り – そして神が何を言い、何をするか待つ。私の人生は神の前にある。私の主よ。朝がくるまで私は待ち続け、見続ける。」(5,6節MSG)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。

神の時に、神の方法で行なわれることを期待することです。

私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。

神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。

詩人は言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

最高の日は、まだ、これからです。

詩篇 129篇

「さあ、イスラエルは言え。彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし彼らは私に勝てなかった。」(129:1,2)

イスラエルの国はその歴史の初めから諸国民から苦しめられてきました。

しかし、滅ぼされることはありませんでした。

詩人は、そのことを告白するように言います。

使徒パウロもこんなことを言っています。

「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:8,9)

なぜなら、「主は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切られた」(4節)からです。

この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。

神は私たちのためにいつもそこにおられます。

辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

いよいよ来週の日曜日に!

神様の不思議な導きと恵みの中でこの教会に導かれ、与えられたすべての出会いに心から感謝します。

イエス様の十字架の御業と復活の希望はいつも私たちの目を永遠の希望へと向けさせてくれます。

全ての生き物の中で死ぬことへの恐れを抱くのは人間だけ。

将来への不安を感じるのも人間だけ。

なにかを拝もうとするのも人間だけ。

死後どうなるのかと悩むのも人間だけ。

人間は特別に神様が創られ、命の息を吹き込まれた存在であり、神様を礼拝し神様との関係の中でのみ本当の安らぎや平安を体験できるのだと思います。

 だからこそ、和解の使者となってくださったイエス様が私たちの唯一の救いであるということをこれからも、この教会が存在する限り語り続けていきたいと思います。

『エベン・エゼル』主への感謝の記念碑がこれからも増え続けていきますように。

来週は奇跡の場所であるこの礼拝堂で、沢山の方々と共に主への感謝をささげる時を持つことができますように。

ただ、駐車場に限りがありますので近隣のコーンパーキングのご利用をお願いする場合があるかもしれません。

どうぞご了承ください。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 128篇

「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」(128:4)

健全な主に対する畏れが、祝福を受ける秘訣です。

聖書は言います。

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:7)

この詩篇で主を恐れる人の行動として挙げられているのは家族と労働を大事にする人の姿です。

「あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。

労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。

神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。

「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(4,5節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 127篇

「実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(127:2)

大自然を前に、人は人の力を超えた神の存在を意識します。

壮大な建築物は、人間の業ですが、その背後にも、神の働きを認めるように詩人は言います。

「もし、神の恵みが建てる者を助けなければ、彼らは家を建てるために無駄な労働をすることになります。」(1節TPT)

すべての人間の営みの背後に神の働きがあります。

自らの能力や努力に加えて、様々な要因が協力的には働かなければ、事はそう簡単に運ぶものではありません。

だから聖書は言います。

あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。」(申命記8:17,18)

詩篇 126篇

「主よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。」(126:4)

ネゲブはイスラエル南部にある乾燥地域のことです。

この地域には、乾季には水が無く、雨季には激流となる涸谷(ワディ)がいくつもあります。

「ネゲブの流れのように」とは、まさにこのワディのように劇的な転換を期待した祈りのことです。

月本氏は「私たちを元どおりにしてください」を「われらの命運を転じてください」と訳しています。

砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」(5節)

私たちが求める主なる神は、生ける神、主イエス・キリストです。

主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。

泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。

マイナスはプラスになります。万事は益となります。

それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、驚くべきことをなさった。」(2節LB)

詩篇 125篇

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなくとこしえにながらえる。」(125:1)

私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。

すぐ、不安になってしまうことがあります。

「シオンの山のよう」という意味には主の臨在に対する意識があると思われます。

シオンの山には、神の臨在の象徴である神殿があったからです。

主が共におられるという主の臨在を認識することが不安に対する処方箋ということだと思います。

主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」(1,2節LB)

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。

ですから、どんな状況でも動じないと詩人は言います。

詩篇 124篇

「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」(124:8)

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら」(1節)

と考えるだけで恐ろしくなります。

すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。

私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。

神の側から私たちの手を離すことはありません。

しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。

ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。

神とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

「助けの手は、天地をお造りになった主から伸べられます。」(8節LB)

詩篇 123篇

「まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。」(123:2)

私たちの視点はどこに向けられているでしょうか。

詩人は、

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

と言います。

残念ながら、自分の都合のよいように動いてくれる神を自分の下に見下げても、人は神を見出すことはできません。

神は私たちのしもべではなく、私たちが神のしもべだからです。

私たちは、自分の人生の主人として、神を見上げる必要があります。

「しもべたち」、「仕える女」とあるように、キリスト者として成熟することは、キリストのしもべとして生きることを学ぶことでもあります。

キリストのしもべは祈ります。

「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれんでください。)

詩篇 122篇

「「さあ主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。」(122:1)

「都上りの歌」という意味は、エルサレムの神殿に巡礼するのに歌われた歌ということです。

「さあ主の家に行こう。」と人々が言ったことに、詩人は喜びを爆発させたという歌です。

「主の家」である神殿は神の臨在の象徴です。

人々はそこで神を礼拝し、賛美と祈りをささげました。

現在エルサレムには神殿はなく、いたるところに戦争の傷跡が残っています。

神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思いださせ、私たちの心を絞めつけます。

エルサレムの平和のために祈れ。」(6節)

とありますが、エルサレムはもちろんのこと、世界の平和のためにも祈りたいと思います。

また、神の臨在の象徴という意味では、教会は「主の家」です。

多くの人々が、「さあ主の家に行こう。」と言うリバイバルを信じて、祈りましょう。