6月5日は記念礼拝です!

いよいよ来月、6月最初の日曜日(6月5日)は開拓40周年献堂20周年を記念しての特別な礼拝です。

いつもより30分早い10時から、第一第二合同で行いますのでお間違えの無いようにお願いします。

これまでの神様の守りと導きに感謝をささげ、これからの教会の歩みがさらに主によって広げられていくことを願い、心を合わせて祈る時としたいと思います。

記念CDも完成を待つばかりとなりました。

『エベン・エゼル』というタイトルに相応しい記念碑となるに違いありません。

記念DVD の制作も着々と進んでいます。

私たちの人生に様々なことがあったように、栄シャローム福音教会にも喜び、感謝、痛み、涙があります。

しかしそれらすべてを超えて今ここに教会が存在していること自体が、ただただ神様の恵みの奇跡だと思うのです。

ですから神様へのたくさんの感謝を携えて集いたいと思います。

『主がここまでわたしたちを助けてくださった』ことを人生を振り返りながら思い起こし、次の『エベン・エゼル』にむけて前進していきましょう。

これまでかかわってくださった全ての方々に心から感謝しつつ。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 121篇

「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(121:2)

人間は神にはなれません。

すべての必要に人は答えることはできません。

人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。

しかし神はまどろむことも、眠ることもありません。

私たちは神に期待する必要があります。

自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることが大切です。

また、人ではなく神に助けを求めるように励ます必要があります。

詩人は山に向かって目を上げました。

目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられないような心境だったのです。

そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。

目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはないのであれば、神はその問題を解決することができるはずです。

何よりも聖書の神は奇蹟の神です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 120篇

「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。」(120:1)

120篇から134篇までは、「都上りの歌」と表題が付けられています。

「巡礼の歌」(A Pilgrim Song)とも訳されますが、エルサレム巡礼の時に歌われたと考えられています。

詩人は「苦しみのうちに」あったと言います。

それは6,7節にあるように、

平和をきらうこの者どもと暮らすのには疲れました。私は平和を愛しますが、彼らは戦いを好みます。彼らのどなり声に、私の声もかき消されてしまいます。」(LB)

ということだと思われます。

この地上で生きる限り、このような問題は尽きません。

大事なことは詩人がとった信仰の行動です。

苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。

主を呼び求めるならば、主は必ず答えてくださいます。

巡礼者は主を呼び求める必要を認識し、主の宮へと向かいました。

私たちも同じ姿勢が求められています。

詩篇 119篇169-176(ת)

「私の唇に、賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私に、あなたのおきてを教えてくださるからです。」(119:171)

169節からは「タウ」(ת)から始まるアルファベットの詩です。

ヘブル語最後のアルファベットです。

主のみことばを学ぶならば、主に賛美を捧げずにはいられなくなると詩人は言います。

聖書を学んで、主への賛美の歌が溢れないならば何かが間違っています。

あなたが私に、あなたのおきてを教えてくださるから」と詩人が言うように、私たちに教えるのは聖霊です。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

神の御言葉を深く学べば学ぶほど、聖霊が私たちの教師として、私たちに教えてくださるならば、唇に、賛美が湧きあふれるようになるものです。

詩篇 119篇161-168(ש)

「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平安があり、つまずきがありません。」(119:165)

161節からは「シン」(ש)から始まるアルファベットの詩です。

165節は「シャローム」(שָׁל֣וֹם)という単語からはじまります。

主の御言葉を愛する者には豊かな「シャローム」(שָׁל֣וֹם)があると。

まず、何よりも神との平和(シャローム)が約束されています。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

そして、心の平安も約束されています。

志の堅固な者を、あなたは全き平安(シャローム・シャローム)のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26:3)

神の御言葉を何よりも愛し、慕い求めることから「シャローム」は始まります。

あなたの御言葉を愛する人たちには、このような大きな平安と幸福が訪れ、気分を害することはない。」(TPT)

詩篇 119篇153-160(ר)

「みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。」(119:160)

153節からは「レーシュ」(ר)から始まるアルファベットの詩です。

「すべて」と訳された単語は元来「頭」(ローシュ)を意味する単語です。

それで、パッション訳ではこう訳しています。

あなたのみことばの総計は、絶対的な真理となります。

聖書のみことば、創世記から黙示録まで、絶対的な真理です。

聖書のみことばは神の霊感によって書かれています。

ただ、断片的にではなく、全体的に学ぶ必要があります。

使徒パウロはエペソの教会の長老たちに言いました。

私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(使徒20:27)

詩篇 119篇145-152(ק)

「私は夜明け前に起きて、叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。」(119:147)

145節からは「コフ」(ק)から始まるアルファベットの詩です。

「夜明け」は祈りの時です。

祈りはじめる時、暗い夜に光が差し込み、私たちは夜明けを体験します。

祈りは叫び求めるという側面と、「あなたのみことばを待ち望んでいます。」という両面性があります。

神に訴えるだけでなく、静まって聴く時間も大事です。

静まって、主よ、お語りくださいと聖書を開く中で、みことばが与えられます。

詩人は言います。

ああ主よ、ひたすら祈り続ける私にお答えください。私はあなたのおきてに従います。」(145節LB)

主の御名を呼び求め続けることは、神の御言葉を守ることと離して考えることはできません。

詩篇 119篇137-144(צ)

「あなたのさとしは、永遠に義です。私に悟らせ、私を生かしてください。」(119:144)

137節からは「ツァデー」(צ)から始まるアルファベットの詩です。

神は義(צַדִּ֣יק)なるお方であり、そのなされることも義です。そして神の言葉も義です。

あなたが生きるようにと言われた道(方法)はいつも正しい。」(MSG)

だから、詩人は歌います。

私は取るに足りない存在で、人からさげすまれていますが、戒めだけは大事に守っています。」(141節LB)

詩人は、弱く、小さな存在であるがゆえに、軽んじられているように感じていました。

しかし、それでも神の御言葉を大切にし、生きていくことを宣言します。

これが信仰者の歩みです。

免許更新

5年ぶりに運転免許証の更新案内が来ました、というかおよそひと月前にはもう来ていました。

先週ようやく栄警察署に行き、更新の手続きをしました。

明日は行こう、明日は行こうと思いながらもなんだかんだと理由をつけては先延ばしにしていましたが、いいかげんやらねば、とようやく重い腰を上げての手続きです。

以前は用意されたビデオをただ漫然と30分ほど見るだけだったのに、今回は講習ビデオ15分、直の説明が15分となっていました。

最近問題になっているあおり運転やスマホの普及によるながら運転に関しては特に熱心に話され、あらためて運転免許証を保持していることの重みを感じています。

ところで、クリスチャンには免許証のようなものは存在しませんが生き方の教本は存在しています。

それが聖書です。

聖書を読まなければクリスチャンとしての生き方を学ぶことはできません。

その一丁目一番地は「心を尽くし思いを尽くし、力を尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」

そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。

毎日聖書を読むことは基本中の基本です。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 119篇129-136(פ)

「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれに目を留めます。」(119:129)

129節からは「ぺー」(פ)から始まるアルファベットの詩です。

詩人は神のみことばを「不思議な御業」(ペラオート)と呼んでいます。

あなたが与えるすべての言葉は奇跡(ミラクル)の言葉」(MSG)

だと言います。

なぜなら、

みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。」(130節)

難しいと敬遠せずに、みことばを学びはじめるならば、

「光が輝き、普通の人が、その意味することが分かる」(130節MSG)

ようになります。

そして、みことばが開かれる時、みことばに生きるようになります。

みことばによって私たちの歩みは確かなものとなります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。