詩篇 119篇121-128(ע)

「あなたの恵みによって、あなたのしもべを取り扱ってください。私にあなたのおきてを教えてください。」(119:124)

121節からは「アイン」(ע)から始まるアルファベットの詩です。

「恵み」と訳された単語は、今年のキーワード、「へセド」、「信実の愛」です。

それは、契約を守られる神の信実の愛です。

ですから、この箇所が語っていることは、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、主なる神は私たちを取り扱ってくださるということです。

私たちは神の信実の愛、聖書の御言葉の約束に従って扱われます。

だから、私たちは祈ります。

「どうか、あなたにお仕えする身である私に、すべての点であなたの規範に照らして考える知恵を、お授けください。」(125節LB)

聖書は信仰と生活の唯一の規範です。

日々、聖書の御言葉に照らして考える知恵を私たちは必要としています。

詩篇 119篇113-120(ס)

「私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。」(119:113)

113節からは「サメク」(ס)から始まるアルファベットの詩です。

「二心」は、日本語では「浮気心」というような意味で、分裂、不一致という意味があります。

LBでは

神に従おうかどうしようかと迷う優柔不断な人々を、私は軽蔑します。私は、あなたの教えを愛する心を貫きます。

と訳しています。

私の肉はあなたへの恐れで震えています。」(120節)

という表現は、

「律法が理念や観念としてではなく、血肉と化していることを示唆する」(月本氏)

と言います。

神の御言葉を単なる理念や観念として捉えるのではなく、信仰と生活の唯一の規範として、血肉と化することは重要です。

聖書を単なる理念や観念として捉える「二心のある人たち」は聖書から「迷い出る」(118節)と言います。

しかし、詩人は

あなたの教えを愛する心を貫きます」(113節LB)

と言い、祈ります。

詩篇 119:105-11(נ)

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(119:105)

105節からは「ヌン」(נ)から始まるアルファベットの詩です。

「ともしび」(ネール・נֵר)はランプのことで、当時は、一端を高く尖らせた土器碗が用いられました。

それはつまずかないように、足下を照らす小さな光です。

一歩一歩を照らすような光です。

パッション訳はこのように訳しています。

真理の輝く光は、私の選択と決断を導きます。あなたの御言葉の啓示は、私の道を明らかにします。

真理の輝く光は、足もとは照らしますが、ランプですので、遠くまではよく見えないようです。

今日と言う一日を生きていくのに十分な光ですが、毎日、照らしていただく必要があります。

ですから、聖書を分かった気にならずに、日々、聖書の御言葉に耳を傾ける必要があります。

イエス様は言われます。

一日一日を力いっぱい生きなさい。」(マタイ6:34LB)

詩篇 119:97-104(מ)

「私にはあなたの戒めがあり、見極めができます。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」(119:104)

97節からは「メーム」(מ)から始まるアルファベットの詩です。

聖書を読むことが偽りの道から私たちを守る方法です。

詩人は言います。

あなたの戒めから受ける真の知恵と理解力のおかげで、私はまちがったすべての教えを退けることができました。」(LB)

また、聖書を読むことによって私たちは「人生を理解します」(MSG)。

マックス・ルケード牧師は「幸福は感情ではなく、決断です」と人生を理解します。

前向き、肯定的、信仰的に生きることを決断することが人生を好転させます。

明るく、元気で、のびのびと生きることに決めることが人生を好転させます。

それが聖書の戒めです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサ5:16-18)

詩篇 119篇89-96(ל)

「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら、それなら私は、私の苦しみの中で滅んだでしょう。」(119:92)

89節からは「ラメド」(ל)から始まるアルファベットの詩です。

主の教え(みことば)を喜びとしていなかったら、

私は失望の果てに滅んでいたことでしょう。」(LB)と詩人は言います。

神の啓示である聖書を喜びとしていなかったら、大変な状況が来た時、自分はあきらめていただろうと言います。

時代を超えて信仰の先輩たちは詩人と共に告白するでしょう。

どんなことがあろうと、戒めだけは手放しません。その教えによって、喜びと健康を回復していただいたからです。」(93節LB)

神の御言葉を手放さなければ、神の御言葉によって、喜びと健康は回復します。

詩人は言います。

私は人間のすべてに限界を見るが、地平線はあなたの命令を収められない。」(96節MSG)

詩篇 119:81-88(כ)

「私のたましいはあなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」(119:81)

81節からは「カフ」(כ)から始まるアルファベットの詩です。

「待ち望む」とあるように、待つことは、希望を持つことです。

私たちは神の御言葉、神の約束に希望を持つように聖書は言います。

しかし、詩人は言います。

私はあなたの救いを待ち続けて、疲れてしまいました。それでもなお、助けてくださるというお約束に期待しています。」(81節)

信じていても、疲れてしまうことがあります。

大事なのは、「それでもなお」という信仰の世界です。

詩人は言います。

私は疲れ果て、煙の中の革袋のようにしぼんでしまいました。しかしなお、あなたのおきてを慕い求めます。」(83節LB)

疲れ果て、気力も失いかけていたとしても、それでもなお、神の御言葉、聖書を読み続ける、そこに希望があります。

小坂忠さん②

二週にわたって忠さんのことを書くことをどうぞお許しください。

昨日、所沢の音楽ホールで行われた忠さんの告別式に参列してきました。

800人収容のホールは30分前にはすでに満席となり入場できない方々がロビーにあふれるほどでした。

2時間の告別式の最後に高先生が登壇し挨拶をされました。

その中で、亡くなる直前目を大きく見開いた忠先生が高先生に「愛してるよ」とおっしゃったので手を握り「愛してる」と伝えた、という話をして下さいました。

私の涙腺はこの時完全に崩壊しました。

私たちの人生には終わりがあります。

必ず、死ぬのです。

誰一人逃れることはできません。

『死』を真剣に考えるならば『生』も真剣に考えるようになると思います。

全身がんの宣告から5年、忠先生はいのちの期限を意識しながら自分を捧げて走り切ったのだと思います。

私たちはどうでしょうか。自分のいのちがあと半年だと言われても今の生き方を続けますか。

「あなたは勇敢に戦わず、走るべき道のりを結局走らず、なんでもほどほどで犠牲を払わない信仰生活を送りましたね」、、、そんな結末、私は嫌です、、、

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 119篇73-80(י)

「どうか、あなたを恐れる人々とあなたのさとしを知る者たちが私のところに帰って来ますように。」(119:79)

73節からは「ヨード」(י)から始まるアルファベットの詩です。

主は陶器師のように私たちを造り、私たちを整えてくださるお方です。(73節)

その御手で私たちの品格(キャラクター)を確立させようと、人生の様々なプレッシャーを御手のように用いて、私たちを形づくられます。

ですから、私たちは励まし合う信仰の仲間たちが必要です。

詩人も祈ります。

あなたに信頼し、従っている人々を、もっと仲間に加えてください。みなであなたの教えについて語り明かします。」(79節LB)

御言葉に聴従した人でなければ分からない世界があります。

だから、人は御言葉に生きることを通して励ましを与えることができます。

あなたを恐れる人々は私を見て喜ぶでしょう。私がみことばを待ち望んでいるからです。」(74節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 119篇65-72(ט)

「主よあなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。」(119:65)

65節からは「テート」(ט)から始まるアルファベットの詩です。

英語のGOODに相当する「トーヴ」(טוֹב)が四つの節(六五、六八、七一、七二)の冒頭に置かれています。

「良い」、「幸い」、「恵み深い」と一般的に訳されますが、新改訳二〇一七では形容詞は「いつくしみ深く」、動詞は「良くしてくださる」と訳しています。

神のご性質そのものが「良い」お方であり、神がなされることは「良い」ことであるということです。

ですから、詩人は証します。

私の問題は最善となりました。それらは、私があなたの教科書から学ぶことを強いたのです。」(71節MSG)

私たちには理解できない出来事の中にあっても、神が最善以下はなさらないと信頼することができます。

なぜなら、神は良い神であり、良いことをなされる神(68節)だからです。

詩篇 119:57-64(ח)

「主は私への割り当てです。私はあなたのみことばを守ると申し上げました。」(119:57)

57節からは「ヘート」(ח)から始まるアルファベットの詩です。

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。」(64節)の「恵み」と訳された単語、「へセド」(חֶסֶד)は、「慈しみ」「憐れみ」と訳されますが、今年のキーワード、「神の信実の愛」を意味します。

契約を守る、約束を必ず果たされるという意味で、神の信実の愛に地は満ちていると詩人は詠います。

詩人はまずこう告白します。

なぜならあなたが私を満ち足らしてくださいましたから、神よ、私はあなたが言われたことを全て行うことを約束します。」(57節MSG)

ただ神に満足を見出す時、ただ神だけが生きる支えであることを見出す時、私たちは神の信実の愛がこの地に満ちていることに目が開かれ、感謝に溢れるようになります。