クワ子

我が家にクワガタのメスがやってきてちょうど一週間。

瀕死の状態(ゴキブリと間違えて水攻めにしてしまったため)から少しづつ元気になり、一昨日はとうとう脱走して半日家の中で行方不明になりました。

お世辞にもかわいいとは言えない姿ではありますが、近くで見るとその精巧な作りに神様の偉大さを感じ、感動します。

マクロの視点でも、ミクロの視点でも奇跡の創造の業。

いつも思うのですが、これがどうして自然に、あるいは偶然できたなどと信じられるんでしょう。

ところで、中国のロケットの残骸が地球に落下することがニュースになっています。

20トンもあるため大気圏では燃え尽きない可能性が大きいとか。

日本を含めた広範囲に落下の可能性があるとのことです。

「これはもう神に祈るしかない」とあるコメンデ―ターが発言していましたが、科学の発展による結末がこの世では非科学的と言われる『神に祈ること』だという結論に思わず笑ってしまいました。

神様の存在、聖書の御言葉を現実として歩むときにその素晴らしさに圧倒されます。

私たちが神の国の現実に生きる姿を通して、その中に加わる人が起こされていくことを心から祈ります。

今週も全能の主が私たちと共にいてくださることを信じ、主にあって力強く歩むことができますように。

暑い日が続いていますので体調も守られますよう互いに祈り合っていきたいと思います。

(小山晶子牧師夫人)

マタイ 13章

「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(13:23)

「種を蒔く人のたとえ」として有名な箇所です。

明らかに「種を蒔く人」とは神のことであり、蒔く種は「みことば」(御国のことば)のことです。

蒔かれた「みことば」がすべて実を結ぶわけではありませんが、神はそれでも蒔き続けていると言います。

そして、確実に実を結ぶと言います。

ここで重要とされていることは「みことば」を悟ることです。

それは、知的な了解のことではありません。

「みことば」に生きるということです。

どんなに聖書のみことばを聞いても、みことばに生きようとしなければ、「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。」(19節)

しかし、みことばに生きる人が「実を結びます。」(23節)

今日は主の日。共に主の御言葉に耳を傾け、主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 12章

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(12:28)

神の国、それは神の統治、神の支配を表わします。

ですから、イエス様は神の力(権威)によって悪霊を追い出しているならば、ここに神の国があると言われました。

天国が神の国と呼ばれるのは、天では神のみこころが行われているからです。

私たちは天で神のみこころが行われているように、この地で神のみこころが行われるように生きることが求められています。

神のみこころが行われている所、そこに、神の国があるからです。

神のみこころが行われているなら、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」。

マタイ 11章

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(11:28-30)

「くびき」は、強い牛と弱い牛二頭の首に載せて使うことによって、弱い牛が自分の力以上の働きができるようにするものでした。

わたしのくびきは負って」とイエス様が言われたのは、イエス様と共に働くことによって、私たちも力ある働きをすることができることを示唆しています。

イエス様はまた、「わたしから学びなさい。」と言われました。

イエス様は完全な神ですが、完全な人となってくださいました。

それは、私たちがどうやって生きたらいいかを示すためでもありました。

私たちはイエス様から学ぶ姿勢も大切です。

マタイ 10章

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(10:1)

十二弟子たちは、イエス様から権威を授けられたから、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすことができました。

ですから、大事なことは、イエス様から権威を授けられることです。

復活されたイエス様は弟子たちに言われました。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」」(28:18-20)

地域教会はイエス様から権威が授けられて、大宣教命令が託されています。

マタイ 9章

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(9:36)

イエス様を動かしていたのはあわれみでした。

あわれみと訳された単語は、「内臓」で、人間の深い感情を意味しました。

はらわたが引きちぎられるような、深い同情の心を意味します。

日本のリバイバルを祈り求める人もイエス様と同じあわれみに動かされています。

私たちもイエス様と同じように見ているでしょうか。

まるで羊飼いのいない羊のように、彼らは混乱し、目的もなく過ごしていた。」(MSG)

イエス様の思いを自分の思いとし、日本のリバイバルのために祈りましょう。

マタイ 8章

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」(8:16)

イエス様のこの地上での働きの一つは、悪霊どもを追い出し、病気の人々を癒すことでした。

それは17節にあるように、イザヤ書に預言されていたことの成就でもありました。

イエス・キリストは昨日も、今日も、とこしえに変わることがありません。

今も、悪霊どもを追い出し、病気の人々を癒されます。

「ことばをもって」とあるように、イエス様のことばに力があります。

聖書はイエス様のことばです。

ですから、聖書のみことばによって祈ることが大切です。

マタイ 7章

「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」(7:2)

人を指差す時、3本の指が自分の方を向いているように、自分も同じように裁かれることを意識する必要があります。

メッセージ訳では「批判的な精神はブーメランになる」と訳しています。

自分のことを棚上げにして他者を批判することは聖書的ではありません。

私たちは裁き合うためではなく、愛し合うため、励まし合うために存在しています。

聖書は警告します。

「兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。」(ヤコブ5:9)

マタイ 6章

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(6:34)

イエス様は無責任に「明日のことまで心配しなくてよい」と言われた訳ではありません。

メッセージ訳ではこう訳しています。

「あなたの注目の全てを神が今なされていることに向けなさい。そして、明日、起こるか起こらないか分からないことに取り乱してはいけません。神はどんな大変なことでも、それがやってきた時、あなたが取り組むことができるように助けられます。」

イエス様が私たちの注目の全てを「神が今なされていること」に向けるようにと言われたのは、神が今生きておられ、今働かれているからです。

神は良い神であり、神が今なされていることは良いことです。

神が今なされている良いことに目を向けることができますように。

今日は主の日。共に主を見上げ礼拝を捧げましょう。

甲府に行ってきました

先週日曜日は甲府カルバリー純福音教会での奉仕でした。

他教会の礼拝に出席することはめったにないのでドキドキしましたが、皆さん歓迎してくださり不思議な懐かしさとあたたかな気持ちで過ごすことができ感謝しています。

主にある家族がここにもいる。

宝だなあとしみじみ感じました。

お祈りくださりありがとうございました。

ところで甲府は今もも・モモ・桃一色!

おおきくて重くていい香りの桃が何種類も売られていました。

ああ、シャロームの皆さんに食べてもらいたいなあ。

鈴木姉にもいくつか切って持っていこうかな。

、、、あ、、、、そうか、鈴木姉はもういないんだ、、、そっか、、、。

こういう何気ない日常の中で大切な存在が側にいなくなったことを思い知らされるのですね。

数日前、大和カルバリーチャペルでよく音楽奉仕をしておられた声楽家の29歳男性が突然天に召されました。

相次ぐクリスチャンの召天の知らせに、主よ、これは形を変えた携挙ですか?と真剣に問いかけたくなります。

天国はどんどんにぎやかになって地上は寂しくなるばかりですが、だからこそ神様に生かされていることをこれまで以上に意識し、いつ「そのとき」が来てもいいように日々をきちんと歩んでいかねばと思います。

今週もいのちの日数を正しく数える歩みができますように。

皆様の上に神様の祝福と助けがありますようお祈りしています。  

(小山晶子牧師夫人)