マルコ 7章

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。」(7:18,19)

当時のユダヤ人たちは、食物によって、その身は汚されると考えていました。

なぜなら正典ではないマカバイ記にそう記されていたからです。

ユダヤ人たちが食べ物にこだわったのは、民族的、国粋主義的理由でした。

「私たちはユダヤ人。あなたたちとは違う。あなたたちと同じようには生きない。」

イエス様が「すべての食物をきよいとされた」という意味には、そのような民族主義の壁は、不適切だということを伝えるためでもありました。

問題はすべての人に共通した心の中の問題です。

ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、全ての人は、神に内側を取り扱われる必要があります。

エアコン

キャンプ場に着き、スタッフに部屋の場所を聞くと「ニューヨークの上のゲストルームです」と言われ目の前が真っ暗になりました。

過去数回宿泊した、大きなクモが出る恐怖部屋、、、わかりました、と笑顔で言っては見たもののリラ一同意気消沈という感は否めませんでした。

ちなみに「ニューヨーク」とは女子のお風呂のことですのです。

入浴とニューヨーク、なかなかしゃれたネーミングです、、、でも、くじけてはいられません。

すぐにやってくる本番に備えて部屋に荷物を置きに行くことにしました。

そっと扉を開けると今まではなかったベッドが二つ、ベッドメイキングされた状態で(これまでは受付にシーツを取りに行って自分で寝具の準備をしていました)きれいに整えてあったのです。

歓迎されていることを感じ、とてもうれしく思いました!

見慣れた扇風機が柱に取り付けてあり、ああ、やっぱりね、、、とふと窓側に目を移した瞬間、信じられない光景が!

なんと真新しいエアコンが取り付けてあったのです!!!

思わず「エアコンや!エアコンついてる!!」と叫んでしまいました。

これで猛暑でもやっていける、、、心底安堵した瞬間でした。

みなさん、祈りは聞かれていました。

不信仰な私をどうぞお許しください。

三回の奉仕をメンバー一同元気に行うことができほっとしています。

黙食は想像以上につらかったですけどね、、、。

(小山晶子牧師夫人)

マルコ 6章

「イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」」(6:4)

イエス様の弟たちは、皆、イエス様を信じていませんでした。

しかし、後に、彼らは皆、初代教会において中心的な役割を担う者となっていきます。

私たちは、神がこの時代のこの世界で何を行われているかという大きな視野と、個人個人に働かれている小さな視野の両方が必要です。

イエス様の弟のヤコブも、最初は福音に反対していましたが、神の恵みによって、信仰と祈りの人となりました。

彼こそ、後に、エルサレム教会の牧師となり、新約聖書のヤコブの手紙を書きました。

神は、世界全体にも働かれていますし、私たち一人一人の人生にも働かれているお方です。

私たちは、目に見える現実に縛られずに、信仰の目が必要です。

今日は主の日。共に、神の御子、主イエス・キリストに礼拝を捧げましょう。

マルコ 5章

「中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」」(5:39)

 イエス様の言葉は多くの人にとって場違いと感じたのだと思います。

イエス様の御言葉に対して、

人々はイエスをあざ笑った。」(40節)

と言います。

聖書の御言葉に生きていく人生は、時に人々からあざ笑われる生き方でもあります。

現実は

お嬢さんは亡くなりました。」(35節)

ということでした。

しかし、イエス様は、そんな現実の声を聞き流して言われます。

恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

私たちはいつも選ぶ必要があります。

神の御言葉を聞くか、それとも、現実とされる言葉を聞くか。

イエス様がそうされたように、現実とされる言葉を聞き流し、信仰の言葉、イエス様の言葉を聞くならば、神の御業を拝します。

マルコ 4章

「また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」」(4:24,25)

たとえ話の主語が誰か明示されていないので、分かりづらく感じます。

これは、神が主語の時に、神の名を書かないという習慣から来ています。

神の名をみだりに唱えてはならないからです。

「その上に増し加え」る方は神です。

「聞いていること」とあるように、ここで「持っている人」とは聞く耳を持っている人です。

持っていない人は、神の御言葉を聞く耳を持っていない人です。

神の御言葉を聞く耳を持っている人は、神はさらに祝福を与えられます。

聞く耳を持っていない人は、その人が持っていると思っていたものさえ、神は取り上げてしまうと言います。

教えやすい心を持つことができますように。

マルコ 3章

「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。」(3:24)

この箇所はアブラハム・リンカーン大統領が南北戦争の時に引用した箇所として有名です。

多様性を尊重しつつも、一致する必要があるということです。

特にキリスト教会が求められていることは一致です。

互いの違いを尊重しつつ、キリスト者は一致することが求められています。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:2,3)

互いに反目し、分裂するならば、教会は立ち行かず、やがて滅んでしまいます。

それはサタンの策略です。

ですから、アウグスティヌスの言葉と言われますが、

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって。

という姿勢が大切です。

マルコ 2章

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(2:5)

信仰と奇跡には関係があります。

神は奇跡の御業を行なわれる時に、私たちの信仰を求められます。

この中風の人が信仰告白をしたという記述はありません。

しかし、イエス様に癒してもらうために、

「イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。」(4節)

とあります。

この友人たちの信仰の行動は奇跡の力が解き放たれるために十分でした。

「彼らの信仰を見て」

とあるように、イエス様は友人たちの信仰を見て、中風の人を癒されました。

ですから、私たちはあきらめずに祈り続ける姿勢が必要です。

群衆のために近づくことができなかったからといって彼らはあきらめませんでした。

祈りの子は滅びません。

祈り続けましょう!

マルコ 1章

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」」(1:14,15)

神の福音、良き知らせは、

時が満ち、ついに神の御国、神の統治がここに来た。

という知らせです。

この知らせに対する応答は、神に立ち返り、神の統治を受け入れることだということです。

福音を信じるためには悔い改めが必要です。

神の統治を受け入れることは、神を王として認める必要があるからです。

悪いと分かっていることから離れる必要があるからです。

自分中心から、神中心の世界観に考え方を一新する必要があるからです。

この世がすべてという世界観から、永遠の世界があるという世界観に思いを刷新する必要があるからです。

「せいちょう」で成長

教会学校でずっと使用しているテキスト「せいちょう」。

わたしも小学生の時母教会で使っていました。

その日の話の内容は同じなのですが学年によって質問の難易度が変えてあるので使いやすく重宝しています。

一年間のカリキュラムが組まれており三か月に一度新しいものが出版されます。

今年度からは巻末に「星の創造」という連載が始まり、子どもたちと一緒にわたしも興味深く読んでいます。

今回驚いたのは太陽の放出しているエネルギーについて。

太陽が一秒間に出すエネルギーは、アメリカが一年間に使う電力の100万倍だそうです。

そのエネルギーの源は核融合。

太陽の中心核(約1500万度)で4つの水素原子がくっついて一つのヘリウム原子になる時大きなエネルギーを生み出すそうです。

地球以外に太陽系で人が住める場所はありません。

例えば火星はマイナス150度で寒すぎますし、金星は465度で暑すぎます。

こういったことはきっと学生のころ学んだと思いますがすっかり記憶の中から消え去っていた様々な情報が再インプットされ、神様のすごさ、偉大さに圧倒されます。

このすべてが偶然の産物だと考えるのか、それとも全能の神の創造だと認めるのか。

最初のボタンを掛け違えないようにしたいものです。

神様の偉大さにただただ思いを馳せる、そんな一日を過ごすことも大切だと思います。
(小山晶子牧師夫人)

マタイ 28章

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(28:19,20)

イエス・キリストは、私たちのために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。

復活されたイエス様は、みこころが天で行われるように、地でも行われるためのすべての権威が与えられていることを告げました。

そして、あらゆる国の人々にこの知らせを伝えるように命じました。

天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられると言う意味は、天においても、地においてもすべての権威をもつ、王座に着かれたということです。

私たちが託されたことはあらゆる国の人々にこの福音を伝え、キリストの弟子とすることです。