ルカ 12章

「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」(12:48)

私たちは豊かな賜物がある人、地位や財産がある人をうらやましく思う傾向があると思います。

しかし、私たちが理解する必要があることは、多く任された者は、多くを要求されるということです。

与えられたもの、任されたもので何をしたかが問われる時が来ると聖書は言います。

人よりも多く任されているということは、それだけ責任が問われるということを意味しています。

だから、イエス様は言われました。

どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(12:15)

ジョシュのいのちも

一年前、我が家の7歳になる雄猫ジョシュが突然ショック状態となりました。

診察の結果内臓にあった悪性腫瘍が破裂し出血したことが原因だと判明しました。

瞳孔が開き、これまで数匹の猫の死に立ち会った経験からも時は近いことが分かり「神様、どうか苦しまずにジョシュの命を終えさせてください」と泣きながら祈りました。

そんな中息子たちはジョシュが癒されるようにと祈るのです。

病院でジョシュのおなかの画像を見ながら説明を受けた私は癒されることを祈っていませんでしたが、息子たちの姿に反省させられ、手を置いてイエス様の御名によって癒されること、神様にできないことはないことを信じ宣言しました。

先週ジョシュのおなかの状態を確認してもらったところ「とてもきれいな状態で腫瘍も出血もない」とのことでした。

先生から『すごいです!』となんども言われました。

状態が良くなっていることは様子からもわかってはいましたが本当に癒されていることがはっきりして診察室でハレルヤ!と叫びたい気分でした。

元気いっぱいのジョシュは今日も大好きなチュールをおねだりしています。

(小山晶子牧師夫人)

ルカ 11章

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」」(11:1)

ユダヤ人の教師は、自分の弟子たちにだけ、特別な祈りを教えていました。

そして、そのように祈ることが、弟子のしるしとなっていました。

イエス様のお弟子さんたちは、イエス様がよく祈られていたのを見ていましたので、自分たちにも、イエス様の弟子のしるしとなるような祈りを授けてくださいとお願いしました。

イエス様がその求めに応じて教えたのが「主の祈り」です。

初代教会では、この祈りを特別真剣に受け止めて、洗礼を受ける人にだけ教えたそうです。

宗教改革の指導者、マルチン・ルターも、こんなことを言っています。

「いかなる場合も、キリスト者が正しく『主の祈り』を祈るなら、その祈りは十分以上であると、私は確信する。」

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

ルカ 10章

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10:20)

「権威」が授けられる時、人は自分の能力以上のことを行うことができます。

イエス様は七十二人の弟子たちに権威を授けて、町々に神の国の到来を告げるために遣わされました。

弟子たちは喜んで帰って来て言いました。

「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」。(17節)

イエス様は、弟子たちが誤解しないように、彼らが自分の成し遂げた功績ではなく、

「あなたがたの名前が天国の市民として記されていることを喜びなさい。」(20節LB)

と釘をさします。

主イエスを信じる者には、主イエスが授けてくださる権威によって、自分の能力以上の働きをすることができます。

病人は癒されます。(9節)

しかしそれはあくまでも、自分が神の国の民という証明です。

誰も誇ることはできません。

栄光は主のものです。

ルカ 9章

「しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」」(9:50)

仲間意識は気をつける必要があります。

残念ながら、キリスト教会にも多くの教団教派と呼ばれるグループが存在します。

仏教とは違い、正統的なキリスト教の経典は共通して聖書のみであり、その教えも根本的には変わりません。

ですから、アルファ(キリスト教基礎講座)は、カトリック、正教会、聖公会を含むプロテスタントの各派で行われています。

私たちは仲間意識で批判し合うのではなく、宣教のために協力する必要があります。

自分たちの仲間ではないからと、福音宣教の働きをしている人たちの働きを妨げてはいけません。

イエス様は言われます。

「そんなことをしてはいけません。あなたがたに敵対しない者は、あなたがたの味方なのです。」(LB)

ルカ 8章

「しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」」(8:46)

この箇所を理解する上で思い出す必要があるのが6:19です。

群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。

イエス様に触れるなら癒されるという信仰を当時の群衆は持っていたのです。

この女性もその一人でした。

彼女は後ろから近づいて、イエス様の衣の房に触れました。

その時彼女は癒されました。

今も同じように、信仰をもってイエス様を求める人たちに、イエス様から力が出て、癒します。

驚くことは、イエス様はこの女性に自己申告をさせて、証をさせているということです。

病気の癒しの証は、自分の心の中に留めるものではなく、広く証するものということです。

なぜなら、癒しの証は癒しの信仰を与え、主の癒しの御業が解き放たれることになるからです。

ルカ 7章

「そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。」(7:48)

あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。」(36節)

イエス様が当時の宗教指導者の家に入って、一緒に食事をしたというだけでも驚きです。

このパリサイ人も、イエス様を招くだけの度量はあったのだと思います。

しかし、この「罪深い女」の登場を通して、彼が本来ゲストにすべき礼儀を何もイエス様に対してしていなかったことが暴露されます。

イエス様は言われます。

この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(47節)

罪が赦されているかどうかは、その人の行動に現れると言います。

この女性は強制された訳でも、仕方なくでもなく、行動しました。

イエス様に愛され、赦され、受け入れられたことを理解すれば、それに応答せずにはいられないからです。

ルカ 6章

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。」(6:36,37)

牧師の牧師と呼ばれるヘイフォード師は人生のマスターキーはイエス・キリストであり、その鍵型に私たちは整えられていく必要があると言います。

その鍵型は、第一に裁かない。人の悪口を言わない。

第二に不義に定めない。誰かのせいにしない。

第三に赦す。他者に優しく、広い心で接する。

第四に与える。握りしめずに、自分の思いを神に明け渡す。

「神があなたの人生に対して持っておられる最終目標は、あなたが快適な生活を送ることではなく、あなたが人格的に成長することです。神の願いは、あなたが霊的に成長してキリストに似た者になることです。」(リック・ウォーレン師)

ルカ 5章

「その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。」(5:27)

当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。

ですから、取税人はローマの手先となって自国民から税金を徴収する者として蔑まれていました。

ですから嫌われ者だった取税人、レビにイエス様が目を留められたというだけでも驚くような話です。

それだけでなく、イエス様はレビに

わたしについて来なさい」、

すなわち、弟子となるように召したとあります。

イエス様が目を留められるのは完全な人ではありません。

欠けだらけの、普通の人を用いて、普通でないことをされます。

事実、レビは、マタイの福音書を書いたマタイのことだと考えられています。

するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」(28節)

とあります。

大事なことは、イエス様に従うことです。

飯盛山(いいもりやま)から

先週会津若松へ行ってきました。

会津と言えば白虎隊。

10代になったばかりのわたしは、1986年のテレビドラマ「白虎隊」に衝撃を受けました。

自分と歳の変わらない少年たちが命がけで会津藩の為に戦い、最期は自刃するというあまりにも哀しいストーリーと、堀内孝雄が歌う「愛しき日々」が相まって涙腺が崩壊し、しばらくそのドラマを思い出しては涙するという始末。

会津戦争は幕末維新における戊辰戦争の中の史実であり、その悲劇の舞台の一つが飯盛山です。

彼らが自刃した場に立ち、鶴ヶ城に目をやるとタイムスリップしたような感覚に襲われました。

状況は違えど、為政者の犠牲となった人々の叫びは途切れることなく今もなお続いています。

なぜ、いま自分はここで死ななければならなかったのかわからないまま命を落としていった人々。

人類はより良くなるどころか後退しているように感じます。

神様が与えた命を奪うことは間違いなく罪です。

いつの日か裁きの時に一人一人が主の前に立つとき、為政者たちもいち個人としてその責任を問われることでしょう。

正しい審判者である主に委ねつつ山を下りました。

(小山晶子牧師夫人)