ルカ 4章

「イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」」(4:21)

イエス様が故郷のナザレの会堂で開かれた箇所はイザヤ書61章でした。

その後半部分には

主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ」(2節)

とあります。

ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの人々にとってみれば、

神の復讐の日を告げ

という部分が大切な一節でした。

しかし、イエス様はあえてその手前で

巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。」(20節)

と言います。

イエス様が実現されたのは、復讐の日のメッセージではなく、恵みの年のメッセージだったからです。

聖書は言います。

主は、・・・だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

ルカ 3章

「メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、」(3:31)

イエス様の系図は、ルカとマタイに出てきます。

ただ、マタイではダビデの子はソロモンなのに、ルカはナタンとなっています。

四世紀にはこの問題が論じられていたらしくエウセビオスは「教会史」の中でアフリカヌスの言葉を引用して次のように述べています。

「イスラエルでは一族の名は、自然の関係または律法の定める所によって数え上げられた。そのために、嫡子の継承は自然によるが、子のない兄弟が死んで他の兄弟が亡くなった者の名で子を儲けた場合は、それは律法によって数え上げられる。(中略)さて、そのような系図に記載されたある者は、父-子の自然な関係を受け継いでいるが、ある者は、父が異なるために別の名を冠せられ、生みの親とそうでない親の双方が記憶された。したがって、二つの福音書はどちらも虚偽を言っているのではなく、一方は自然によって、他方は律法によって数え上げているのである。」

ルカ 2章

「すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」」(2:49)

ヨセフとマリアはイエス様が一緒にいるものと思って旅を続けてしまいました。

私たちも同じ間違いを犯しやすいと思います。

イエス様がいるものと思い込んで自分の働きを推し進め、イエス様の臨在を失っていることに気がつかないのです。

もし、そういう状態であるならば、私たちはイエス様の両親がそうしたように、祈りをもってイエス様を探す必要があります。

イエス様を見つけるまで、あきらめずに、聖書を読み、探し続ける必要があります。

イエス様を見出すなら、イエス様は言われるでしょう。

わたしが父の仕事に関わることになるとは思わなかったのですか。」(NTE)

父なる神の働きに関わっているでしょうか。

ルカ 1章

「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。」(1:80)

イエス様に関しては、

「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」(2:52)

とあるように、家族の存在を感じますが、バプテスマのヨハネは

「荒野にいた」

とあるように、家族の存在が感じられません。

この一節に、高齢だったザカリヤとエリサベツが早くして亡くなり、荒野にあったクムラン教団に幼いヨハネが引き取られて育った可能性が示唆されます。

ある学者はクムラン教団のイザヤ書40:3

荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。

の解釈の影響をバプテスマのヨハネは受けたと言われます。

誰もがバプテスマのヨハネのような人生を歩むわけではありませんが、誰の人生の成長の過程にも神の指紋を見ることができます。

全ては神の配慮によって起こっています。