ローマ 9章

「しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。」(9:6)

イスラエル民族に生まれた者がみな、「イスラエル」という意味ではないと言います。

「イスラエル民族」の選びが無効にされて、「イスラエル民族」に置き換わって「キリスト教会」が選ばれたという意味ではありません。

神の選びというのは、最初から一つの民族に限定されたものではなかったということがここで論じられている内容です。

アブラハムの血族だからアブラハムの子孫になるわけではなく、神が約束したから、イサクはアブラハムの子孫になったということを示し、血筋より、約束が優先されている事を示します。

つまり神のご計画がだめになったわけでもなければ、変更したわけでもありません。

イエス・キリストの十字架の死と復活は神のことばを成就したという事です。

やっぱり○○○○がすき

すでに何度かユース対象聖書考古学の講義で取り上げているヒゼキヤ。

聖書の中で一番好きな人物です。

聖書を立体的に見ることができる良い機会となればと願いつつ十一月二十三日のワンデイバイブルスクールでの講義のため改めて学び直しているところです。

知らないこと、忘れていることを吸収することはやっぱり楽しい!

最近なかなかまとまった時間集中して勉強する時間が持てていなかったのでこういう機会をいただけることによって半ば強制的に机に着くことができ感謝です。

わたしの考古学好きは小学生のころから始まっていますが(きっかけはまんがです)苦手だった世界史が好きになったきっかけは高校時代の世界史の先生との出会いでした。

ミクロの世界でしか見ていなかった歴史を、マクロの視点で見ることを学び、理解が劇的に変わったのです。

高校生のわたしに、世界史に興味を持たせてくれたあの先生のように、興味を持っていただけるよう準備していきたいと思っています。

歴史の中で栄光を現される神様の素晴らしさを参加者が体験することができるようお祈りください!

(小山晶子牧師夫人)

ローマ 8章

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(8:37)

私たちを愛してくださった方によって」、

すなわち、イエス・キリストの十字架の御業に現された神の愛によって、私たちは圧倒的な勝利者だと聖書は言います。

ウィンストン・チャーチルの成功の定義は、

「熱心さを失うことなく、失敗から失敗に進むこと」

だと言います。

どんな状況の中にあっても、失敗から失敗に進んでいるように見えたとしても、イエス・キリストにあって、

熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕えて」(12:11)

いるならば、成功しているということだと思います。

大事な点は

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。」(26節)

権力によらず、能力によらず、神の霊によって、勝利者以上だと聖書は言います。

神の愛から私たちを引き離すことが出来るものは何一つありません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ローマ 7章

「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:6)

水のバプテスマを受けた者は、古い人がキリスト共に死んだことによって、

モーセの律法との結びつきからも解き放たれた

と言います。

これは、聖書を勉強しなくてもいいという意味ではありません。

ダグラス・スチュワートという旧約学者はこんな指摘をしています。

キリスト者が旧約聖書を学ぶ上で大事なことは

「旧約聖書律法をあなたに対する神の直接命令とはみないこと」。

たとえば、旧約聖書に豚肉を食べてはいけないと書いてあるから、豚肉を食べてはいけないという発想は、パウロがここで否定している内容です。

「モーセの律法」に象徴される「古い契約」ではなく、キリストと共に死んだ今、「御霊に生きる」という「新しい契約」キリストにある新しい命に生きるようにということです。

ローマ 6章

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」(6:11)

3節を直訳するとこうなります。

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた私たちは皆、彼の死の中にバプテスマされたのです。

クリスチャンになるためには、水のバプテスマを受けます。

これは、キリストと共に死に、キリストと共によみがえることを意味します。

初代教会の時から大切にされてきた儀式です。

もっともパウロは、儀式以上の意味を伝えます。

キリスト・イエスの中にバプテスマされることはキリストの死の中に入れられたのと同じことだと言うのです。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)

ローマ 5章

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(5:6)

LBでは6節をこのように訳しています。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」

私たちが何か優れているから代わりに死んだという話ではありません。

どうすることもできなくなった私たちのために、神が主導権をもって、御子イエス・キリストを遣わし、私たちのために死んでくださったということです。

イエス・キリストが私たちのために十字架で死んでくださった

というこの大前提から、3つのポイントをパウロはここで指摘します。

一つ目は、神は私たちを愛しておられること。

二つ目は、キリストを信じる者を神の契約の家族の一員とされたこと。

三つ目は、キリストを信じる者は新しい身分を受けて神のものとされたということです。

ローマ 4章

「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」(4:18)

「望み得ない」という言葉は「παρα」という前置詞がついています。

これは、「反して」「反対に」という意味があります。

ですから、「希望に反して」と訳すことができます。

望めないどころか、反対されているような状況を意味しています。

さらに、この前置詞は、「超えて」(beyond)という意味があります。

「希望を超えて」と訳すことができます。

つまり、アブラハムが「自らの力で望み続けた」というレベルを超えたところでの「希望」という意味です。

LBではこんな訳をしています。

そんな約束はとうてい実現するとは思えなかったにもかかわらず、神を信じました。

状況に絶望し、他者に絶望し、自分にも絶望し、さらに、神にさえも絶望してしまったその先にある「希望を超えた希望」、信心深さや努力を超えたところにある「神の信実」のゆえに、「神の契約の家族として数え入れられる信仰」があります。

ローマ 3章

「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。」(3:25)

「宥めのささげ物」と訳された単語は、「恵みの座」(Mercy Seat)とも訳される「契約の箱の蓋」という意味があります。

つまり、父なる神は、イエス・キリストを「恵みの座」としてこの世界に示されたということです。

すべての人は罪を犯し、神のかたちとして造られたのにも関わらず、神の栄光を反映することができない状態にあります。

だから、神はひとり子イエス・キリストを与えてくださいました。

イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス・キリストの十字架は、この世界に恵みの座を示しました。

誰でも、イエス・キリストを信じるならば、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、罪赦され、神の家族の一員とされます。

折にかなった助けを受け、神のかたちを回復していきます。

ローマ 2章

「どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」(2:21)

聖書は

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(3:1)

と言います。

すなわち、他者を教える人は、その教えていることに生きているかどうかが問われるということです。

自分のことを棚に上げて、他者を教えたり、批判したりすることは、神を侮ることになります。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。」(3節)

と聖書が警告していることを私たちは心に留めたいと思います。

他人を裁くのではなく、謙遜に自分の弱さを認め、神があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くなることができますように。

奇跡、ふたたび

ちょうどひと月前の日曜日、我が家の飼い猫アトラスが実家マンションの五階から転落するという事故が起こりました。

一時期体調を悪くしていたジョシュがアトラスとのマウントの取り合いに敗れ、不安定になってあちこちに粗相するようになってしまったためアトラスを実家に預かってもらっていたのです。

病院での診断は脊椎損傷。

下半身は今後動かず、排せつも自力ではできず、介護していくことになるとのことでした。

うつろな目で横たわり、おむつ交換の時には威嚇しながら逃げようとするアトラスは本当に可愛そうでした。

ただ、わたしたち家族はジョシュの癒しを目の当たりにし神様にできないことはない、という確信が与えられていました。

アブラハムのように「望み得ないときに望みを抱いて信じる」ことを選び、アトラスの身体に手を置いて、何度も癒しを祈りました。

あれから一か月。

アトラスは良く食べ、よく遊び、ジョシュを追いかけまわしています。

後ろ足も自由に動かせるようになり、トイレも自分で大丈夫。

まったく介護の必要もありません。

主の御名を心から賛美します。

私たちの主は、癒し主です。

(小山晶子牧師夫人)