ルカ 1:26-38

「マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。」(1:38)

天使ガブリエルがマリアに会いに来た時、マリアはまだ十代だったと言われます。

おめでとう、マリア」(28節)という挨拶の言葉が「アヴェ・マリア」です。

突然、救い主を身籠るという話は、マリアには受け入れ難い内容だったと思います。

どうしてそのようなことが起こるのでしょう」(34節)

とマリアが言うのも無理はありません。

しかし、ガブリエルは言います。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」

「神にとって不可能なことは何もありません。」(35,37節)

マリアの素晴らしいところはその応答です。

彼女は頭では理解できなくても、神を信頼し、そのみこころに従順しました。

マタイ 1:18-25

「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」(1:23)

「インマヌエル」は「インマヌ」が「私たちと共に」(with us)、「エル」が神(God)という意味です。

イエス・キリストの誕生は、神が遠い、現実離れした存在ではないことを示します。

神は人となって、私たちの間に住まわれました。

栄光の御座を離れて、ご自分を空しくされ、脆弱な赤子として生まれてくださいました。

すべての点において、私たちと同じ試みにあわれたので、私たちの弱さに同情してくださいます。

ですから、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができます。

インマヌエルと呼ばれる救い主は、私たちと共におられます。

マタイ 1:1-17

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(1:17)

アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚までは、旧約聖書に書かれている内容です。

しかし、バビロン捕囚からキリストまでの出来事の多くは、旧約聖書にも新約聖書にも出てきません。

この中間時代の出来事を記したものを聖書協会共同訳は「続編」(外典)として聖書の中に加えていますが、プロテスタント教会は認めていません。

なぜなら、「続編」は神の霊感を受けて書かれたものではないからです。

要するに、神のことばではないからです。

しかし、イエス・キリストの誕生の前にどんなことがあったかを知ることはできます。

系図はアブラハムから始まっています。

神がアブラハムに与えた約束は

地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。

キリストはすべての人の救い主として生まれました。

一瞬灰になった

12月にはいってから忙しさMax。その日その日にやるべきことをこなすことで精一杯です。

クリスマスマーケット終了直後はあしたのジョーのように灰になっておりました。

伝道できたことで心は喜びにあふれているのですが、いかんせん体がついていきません。

そうこうしているうちに今年も残すところあと2週間となりました。

来週12月25日は今年最後の日曜日、そして3名の洗礼式が行われます!

今年のクリスマスに鈴木姉がいないなんて、考えてもいませんでしたし、今年のクリスマスに鈴木姉のご家族が洗礼を受けるなんて想像もしていませんでした。

神様のご計画はわたしたちには図り知ることができないことを実感するクリスマスシーズンです。

年末になるといつも思うのですが「区切り」があることでわたしたちは振り返ることができます。

この一年を振り返り、悔い改めるべきことはしっかり悔い改めましょう。

悪い習慣があるなら来年に持ち越さないようきちんと断ち切りましょう。

感謝は大いに主にお捧げしましょう。そしてすがすがしい気持ちで新しい年を迎えていきましょう!

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ3:16-21

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

アドベント・キャンドルの四本目が灯る今日が、教会の暦ではクリスマスです。

クリスマス、それは、神がそのひとり子イエス・キリストを私たちにお与えになった日です。

神は一人として滅びることを望まれません。

すべての人が救われ、永遠のいのちを持つことを望まれています。

だから、イエス・キリストはこの世に誕生し、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。

今、誰でもイエス・キリストを信じるならば救われます。

この素晴らしい知らせ(福音)を一人でも多くの人に伝えることができますように。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ユダ 17-25

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25)

主なる神は、私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださる方です。

そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20,21節に書いてあります。

あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば、神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

「神の愛のうちにいなさい」とあるように、神の愛の中に留まることが求められています。

2ぺテロ 2:17-22

「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」(2:19)

聖書は、多くの人は自由と言いながら、実は滅びの奴隷となっていると言います。

LBではこう訳しています。

彼らはこう言います。「善人になったからといって、救われるとは限らないなら、いっそのこと、悪いことをしたほうがましじゃないか。やりたいことをやるのが自由というものだ。」このように、彼らは「自由」を教えながら、自分自身が罪と滅びの奴隷になっているのです。何かに支配されている人は、その奴隷なのです。

自由は複雑です。

ある人は自分が稼いだお金を何に使おうと自由だと言います。

しかし、生活の基盤を損なうような使い方をするならば、人生をおかしくします。

それは自由と呼べるでしょうか。

自由は自分自身を滅ぼす自由になりかねません。

聖書が教える道徳的に正しい生活を心がけることは大切なことです。

2ペテロ 2:10-16

「口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」(2:16)

べオルの子バラムの話は民数記22章に出てきます。

イスラエルの民が約束の地に向かう途中、モアブの王バラクは恐怖を抱きます。

それでバラムにイスラエルの民を呪って欲しいと依頼します。

バラムがろばに乗ってバラクのところに行く途中、ろばが人間の声で話したとあります。

あなたがわたしの道を踏み外していたからだ」(民数記22:32)

と主の使いが言っているところを見ると、バラムは主の命を破ることは断じて出来ないと口では言っていたものの、占い料に目がくらみ、神に逆らい、神が祝福された民を呪うことを考えていたということかもしれません。

この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。」(10節)

とあるように、ここで問題となっているのは、主のしもべたちをそしったり、批判したりしてはいけないということです。

2ペテロ 2:1-10

「そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。

道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。

しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。

そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることも伝えています。

キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。

その日は遠くありません。

アドベントの時こそ、確実にその日に向かっていることを意識する時です。

キリストは再び来られます。

だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:12-21

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(1:20,21)

聖書を自己流で解釈することは、聖書が禁じることです。

聖書の一箇所だけをとって、自己流の教えを作り出してはいけません。

また、文脈を無視して何でも象徴的(霊的?)に解釈することも、聖書は禁じています。

まず、聖霊に導かれてその箇所を記した聖書記者の意図をくみ取る作業が必要です。

たとえば、今日の箇所で「ペテロがどうしてこのようなことを書いたのか?」と問う必要があります。

理由は明らかに、聖書のことばを利用して、様々なことを言う人たちがいて混乱が生じていたからです。

聖書は聖書に解釈させることが大原則です。

聖書は、聖書全体から解釈するものです。

ですから、私たちは創世記から黙示録まで聖書全体を読み、学ぶ必要があります。