1サムエル 5:1-12

「それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。」(5:11)

ニーチェは「神は死んだ」と言いました。

現実は、ニーチェは死に、神は今も生きて働いています。

ボルテールは「もう百年も経てば聖書は博物館の中でしか見られなくなるだろう」と言いました。

現実は、聖書は今も読まれ、彼の家は聖書協会の倉庫として、聖書でいっぱいになっています。

イスラエルの民は愚かにも神を利用しようとし、神の箱を汚しました。

いつの時代も、人間の罪の愚かさのゆえに、神の名は汚されてきました。

しかし、神の栄光が地に落ちることはありません。

神は自立自存の神であり、対立を絶たれる絶対者です。

聖なる畏れをもって、偉大なる神に、賛美、栄光、誉れ、感謝を捧げましょう。

1サムエル 4:12-22

「彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。」(4:13)

「神の箱」を戦場に持っていく行為自体が、神を利用しようとしたことの現れでした。

「神の箱」は利用するためではなく、神の臨在を覚え、礼拝を捧げるためにありました。

祭司は神を利用しようとする人たちから「神の箱」を守るべきでした。

しかし、祭司エリが反対したという記述はありません。

心配だったとはありますが、神でさえ利用しようとする自己中心的な民の姿勢に警告すらしていないようです。

神は礼拝の対象であり、私たちが利用できるジーニーではありません。

私たちが神に仕えるのであって、逆ではありません。

神を神としていないならば、その報いを受けることとなります。

悔い改め、主に立ち返り、神を神としてあがめましょう。

これがまあ

実家の母から珍しく写メが送られてきました。

滅多に雪が降らない高砂の家が雪化粧している様子をみて、ふとこの俳句を思い出しました。

これがまあ 終の栖か 雪五尺(小林一茶)

この句は一茶が50歳の時に永住すると決めた故郷である信濃国柏原(現在の長野県信濃町)を詠んだ時の句だそうです。

偶然わたしも今年50歳。

長男も家を出たことで26年ぶりに夫婦二人の生活となりました。

さびしいでしょう、とお声がけいただくことが多いですがさびしいことよりも楽になった面が多いことに驚いています。

それだけ息子たちに意識を向け、エネルギーを注いでいたのだなあと今更ながら実感しています。

子育てに使っていた時間やエネルギーをこれからは伝道牧会に使っていけることにわくわくしています。

終の栖の話なんてまだまだ先のこと。

一粒の雪も降らなかった横浜の空を見上げて思い新たに歩みたいと思います。

とはいうものの、毎日それなりに息子たちから電話がかかってくるので子育て終了!

という安心にはもう少し時間がかかりそうですが。

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 4:1-11

「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、」(4:1)

ペリシテという海岸地方に住む人々が、イスラエルの民を攻めてきました。

民は、神のことばよりも自分たちの考え方の方が正しいという姿勢ですから、神のみこころを祈り求めることよりも、どうしたらいいか論じ合いました。

戦いが終わって陣営に戻ったイスラエル軍では、さっそく指導者たちが、なぜ主がイスラエルを痛めつけられたのかを論じ合いました。「契約の箱を、シロから運んで来ようではないか。それをかついで出陣すれば、主は必ず敵の手からお守りくださるだろう。」」(3節LB)

彼らが話し合い出した結論は、契約の箱をもってくることでした。

聖書に反し、「お守り」のように考えたのです。

結果は無残でした。

しかし、「サムエルのことばが」とあるように、神は語られていました。

民の問題は聞く姿勢がなかったことでした。

今日は主の日。共に、主の御言葉に耳を傾け、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 3:15-21

「全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。」(3:20)

祭司エリも、エリの子どもたちも健在でした。

しかし、イスラエルの人たちはサムエルが主の預言者として立てられたことを認識したと言います。

ダンはイスラエルの北にある重要な町であり、ベエル・シェバは最南端にある町です。

すなわち、イスラエル全体がサムエルを認めたと言うのです。

なぜなら、神がサムエルと共におられたので、彼が語る預言は、神の権威と力があったからです。

人を高くするも、低くするも、神の御手の中にあります。

ですから聖書は言います。

あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)

1サムエル 3:1-14

「主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。」(3:10)

祭司エリの悲劇は

エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。」(8節)

とあるように、主の声を聴く術を知っていたのに聞いていなかったということです。

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」(1節)

というのは、祭司エリの生き方自体に問題があったということです。

神の御声を聴くことは主に仕える者の基本です。

サムエルのように、

お話しください。しもべは聞いております

と日々祈り、聖書の御言葉を開くことは基本です。

エリの問題は、

息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。」(13節)

とあります。

神を恐れない者を聖務から外す決断も大切だったということだと思います。

1サムエル 2:22-36

「人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。」(1:25)

祭司エリの息子たちの非道は、神に対する恐れのなさの現れであり、それゆえ、神の裁きが「みこころ」と宣言されます。

聖書は神を侮らないように何度も警告しています。

聖書は言います。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:7-9)

聖なる畏れをもって、善を行い続けましょう。

神はすべてをご存じです。

1サムエル 2:12-21

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。」(2:18)

少年サムエルと祭司エリの子どもたちの姿が対比されています。

「亜麻布のエポデ」は、奉仕に携わる者たちによって着用された衣であり、サムエルが幼いながらに誠実に奉仕をしていたことがわかります。

しかし、エリの息子たちは神への聖務を侮りました。

その理由を聖書は明確にこのように言います。

主を知らなかった。」(12節)

知識や儀式的な訓練を受けてはいたはずです。

しかし、彼らは主なる神との人格的な交わりがなかったということです。

ですから、主なる神に対する健全な畏れがありませんでした。

主を知らない人、主を恐れない人が聖務につくことほど恐ろしいことはありません。

なぜなら、神への聖務を軽視する罪を神は見過ごされることはないからです。

私たちは聖なる畏れをもって主に仕えていきたいと願います。

1サムエル 2:1-11

「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」(2:10)

今日の箇所は、「ハンナの賛歌」と呼ばれる箇所です。

新約聖書の「マリヤの賛歌」のモデルです。

この箇所は子どもを願うハンナの祈りが答えられたという意味以上の意味があります。

ハンナの子、預言者サムエルの重要な役割は、イスラエルに王制をもたらすことでした。

サムエルは、初代のサウル王、二代目のダビデ王に油を注ぎます。

この「ハンナの賛歌」から分かることは、サムエルの誕生は、「民の祈りに対する神の答えだった」ということです。

民の祈りに応え、神は王を選ぶために、預言者サムエルを誕生させました。

そして、ダビデ王の子孫から、「主に油注がれた者」、メシア、キリストが誕生し、弱い者と強い者が逆転するという「ハンナの賛歌」は成就します。

1サムエル 1:19-28

「年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」(1:20)

ハンナの人生を変えたのは「祈り」でした。

声が大きければ聞かれるという話ではありません。

ハンナの祈りは声になりませんでした。

しかし、一人の人が心を注ぎだして祈った祈りが、その人の人生だけでなく、歴史をも動かしたというのです。

ハンナは生まれた子どもに、

私がこの子を主にお願いしたのだから

と、「サムエル」という名を付けました。

「サムエル」の意味は「神聞きたもう」です。

榎本保郎先生はこんなことを言っています。

「神が全知全能であるとか、神の歴史支配などということはいわゆる神学論議から生まれてくるものではなく、祈りによる神との出会いから生まれてくるものである。(中略)大事なことは私たちが今、ハンナと同じ立場に立つと言うことである。」

ハンナのように祈らなければ分からない世界があります。