ピリピ 2:12-18

「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(2:16)

「いのちのことば」は、いのちをもたらすメッセージ、「福音」のことです。

メッセージ訳は

「闇の中に光を与えるメッセージを運びなさい」

と訳しています。

使徒パウロにとって、一人一人が聖書を信仰と生活の唯一の規範として生き、闇の中に光を輝かすことができるようになるということが使命だと意識していたのだと思います。

使徒パウロが意識していたのは「キリストの日」です。

この世の終わり、最後の審判の日、自分が役割を果たしてきたかどうかが明らかになると考えていたからです。

その日、神の御前でキリストが自分を通して働かれたということを知ることができたならばこれ以上の喜びはないということです。

ピリピ 2:1-11

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」(2:1)

一般的に礼拝の最後に祈られる祝祷は2コリント13:13の言葉が用いられます。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

キリスト、愛、霊、というこの三位一体の祝福の言葉が今日の箇所の背景にあると考えられます。

その祝福は「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(2節)という教会生活の指針とも呼べる祈りとなります。

具体的にはこのように勧めています。

「自己中心であったり、見栄を張ったりしてはいけません。謙遜になって、他の人を自分よりもすぐれた者と考えなさい。自分のことばかりにとらわれるのではなく、他の人のことにも目を向けなさい。」(3,4節LB)

ピリピ 1:22-30

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(1:27)

「生活しなさい」と訳された単語は「都市」(ポリス)から派生した語で、「市民生活を送りなさい」という意味があります。

すなわち、「神の国」の国民という意識をもって生きなさいという意味です。

「神の国」は神の統治を意味しますので、神を王として、神の統治を認めて生きるという意味です。

ピリピの教会は特に分裂の問題がありました。

「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦って」と「一つ」という単語が繰り返されているのはそのような背景があります。

キリストの福音にふさわしい神の国の民の生き方は愛に生きることです。

だから聖書は言います。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:11)

ピリピ 1:12-21

「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(1:20)

「私の身によってキリストがあがめられる」は、直訳するならば「私のからだの中でキリストが大きくなる」です。

つまり、使徒パウロの祈りは、何が起こっても、自分の中でキリストが大きくなることだったということです。

これは、バプテスマのヨハネを思い出させます。

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)

この文脈でパウロは言います。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(21節)

この言葉に対する注釈はガラテヤ2:20です。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

ピリピ 1:1-11

「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(1:6)

「キリスト・イエスの日が来るまでに」とは、イエス・キリストが再び来られる再臨の日、最後の日、審判の日までにということです。

最後の審判の日が来るまでは、神の良い働きは続けられています。

ですから、私たちはその日までは、神の良い働きが継続中であることを意識する必要があります。

自分に対しても、他人に対しても、忍耐するように言い聞かせる必要があります。

なぜなら、神の良い働きはまだ終わっていないからです。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

ヤコブ 5:12-30

「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(5:16)

聖書の言う「正しい人」とは、イエス・キリストを信じた者のことです。

イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、キリストを信じる者は「正しい人」とされています。

キリスト者の特権は、キリストの御名によって祈ることができることです。

神はキリスト者の祈りを用いられます。

ですから、キリスト者の祈りには大きな力があり、効果があります。

もちろん、キリスト者とは自分の欲望のままに祈る人のことではありません。

常に神のみこころを求める人のことです。

神のみこころが天で行われているように、この地にも行われることを祈るものです。

ですから、その祈りには大きな力があります。

キリスト者の祈りの特徴はまた、自分のためだけでなく、互いのために祈ることです。

今日、誰かのために祈りましょう。

スウェーデン

私たちの教会はスウェーデンのモラー宣教師によって開拓されました。

神がレヴィ・ペトロスというひとりの牧師を用いて、二〇世紀初頭、世界中に広がっていったピングスト(ペンテコステの意味)と呼ばれるグループです。

彼が牧会するストックホルムのフィラデルフィア教会は一九一〇年に二九名で始まり、一九五八年には七千人の会衆、四百人の海外宣教師を支援するまでになりました。

今週、ストックホルムに世界中からスウェーデン・ペンテコステ・ミッションの関係者が集まり国際大会が開かれます。

ノーベル平和賞を受賞したムクウェゲ医師やHOPのアルバート先生なども講演されます。

クリスマス・マーケットの日に突然モラー師から連絡があり、私も参加することとなりました。

明日出発し、土曜日に帰国予定。

来週の日曜日は当初からこの大会に出席する予定だった富士のヨルゲン先生の教会で私はメッセージしますが、二〇日の祈祷会、二二日の主日礼拝で報告させていただきたいと思います。

今日は私の親しい友人であり、注目している牧師でもあるグレイスカルバリーフェローシップつくし野キリスト教会の菅原岳先生が礼拝メッセージをしてくださいます。

ヤコブ 5:1-11

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」(5:11)

ヨブは正しく生きることを心がけていました。

サタンは神がヨブの財産、家族、健康を守られているから、誠実に生きているだけだと言います。

それで、神はヨブをふるいにかけることを許可されました。

あらゆるものを失ってもヨブは言います。

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。

そんなヨブを友人たちは、何か悪いことをしたからだと責めます。

ヨブの結末、それは、神の御業は人間が理解できる世界を超えていることが示され、失ったものの二倍の祝福を受けたことです。

聖書は、「この試練を耐え忍べばヨブの祝福がある」と言います。

なぜなら、

なぜなら神が気にかけておられるから、細部に至るまで気にかけておられるから。」(MSG)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

ヤコブ 4:11-17

「律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」(4:12)

聖書は明確に悪口を言い合うことを禁じています。

なぜなら、人を裁くことは、神の役割を演じることと同じことであり、神の領域を侵害していることだからです。

イエス様もこう教えられました。

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」(ルカ6:37)

他者を批判、中傷することは神の言葉である聖書が禁じているので、私たちはそのことに従う必要があります。

聖書は言います。

「人間の運命を決めているのは神です。他人の運命に口出しするあなたは何様のつもりですか。」(MSG)

ヤコブ 4:1-10

「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」(4:2)

イエス様の兄弟のヤコブがこの手紙を書いた理由をここに垣間見ることができます。

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」(4:1)

つまり、教会の中で戦い、争いが起こっていたのです。

残念ながら教会の歴史は、争いの繰り返しです。

そして、ヤコブが指摘しているようにその原因は、自身の欲望です。

神のみこころではなく、自分の欲望を達成したい人が争いを巻き起こします。

だから、ヤコブはその原因は

「神に願い求めることをしないからです。」

と言います。

大事なことは神のみこころを求めて祈ることです。