ヤコブ 3:1-18

「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」(3:17)

ヤコブは二種類の知恵があると言います。

神からの知恵と悪魔からの知恵です。

悪魔からの知恵は偽善であり、ねたみ、敵対心です。

それに対して神からの知恵は

「純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(LB)

「協調性」、「おだやかなやさしさ」と訳された単語は、口語訳では「温順」と訳しています。

しなやかさということだと思います。

カルバリーチャペルのチャック牧師はこう言っていました。

「しなやかな人は幸いである。その人は折れない。」

自分が絶対という姿勢ではなく、教えやすい心、誰からも学ぼうとする心、それは上からの知恵です。

ヤコブ 2:14-26

「同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(2:17)

聖書の言う「信仰」は、行いが伴うものです。

例えば、私たちが薬を飲むのは、その薬の効用を信じているからです。

人は信じているように行動します。

ですから、口先だけの「信仰」は、それだけでは死んだものです。

その人の行いが、その人の「信仰」を言い表しているからです。

Lex orandi, lex credendi、「祈りの法則が、信仰の法則」

と言われます。

教会は祈っているように信じていると言われます。

神を信じているならば、祈りはいつも最優先事項となります。

憐れみ深い主なる神を信じているならば、憐れみ深く生きるものとなります。

ヤコブ 2:1-13

「私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。」(2:1)

人をえこひいきすることは、聖書の価値観と対立します。

残念ながら昔も今も、富や名声、地位などで人を差別する習慣があります。

しかし、人間が作ったいかなる差別にも聖書は立ち向かいます。

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

残念ながら、教会の歴史の中に、このような差別があったことは事実です。

だからこそ、気をつける必要があります。

人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

ことを忘れることがありませんように。

ヤコブ 1:12-27

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(1:21)

神からの知恵は

自分の舌を制御すること

聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」(19節)

と、

怒りの制御

人の怒りは神の義を実現しないのです。」(20節)

も含まれます。

神の知恵に生きるためには、聖書の御言葉を素直に受け入れる必要があります。

もちろんこれは、単に知識として蓄えるということではなく、御言葉に生きることが求められています。

要するに、聖書を信仰と生活の唯一の規範とするということです。

人は聖書のみことばに生きることによって、自分のたましいを救うことになります。

だから聖書は言います。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)

ヤコブ 1:1-11

「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)

神は私たちの祈りに応えてくださるお方です。

新しい年、私たちは何が起こるか分かりません。

しかし、神から与えられる知恵があれば、心配する必要はありません。

神は、祈り求める者に、惜しみなく、とがめることなく神の知恵を与えてくださいます。

「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。」(6節)

と言います。

ここでいう「疑う」とは、神が応えられるかどうかを疑うということではなく、「二心を抱く者」(8節)のことです。

すなわち、神を信頼していない、神を頼りにしていない人のことです。

神を信頼しているがゆえに、「神様どうしてですか?」と問いたくなる時もあるかもしれません。

しかし、祈りを通して、マイナスは必ずプラスになります。

今年も共に、主に礼拝を捧げましょう。