1サムエル 17:50-58

「ダビデの手に剣はなかったが。」(17:50)

ダビデは剣さえ持っていませんでした。

しかし、巨人ゴリヤテを倒しました。

自分たちの代表戦士が倒されたのを見たペリシテ人たちは逃げます。

逆にイスラエルの民は力を得て勝利します。

なぜなら、ダビデが

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。」(46節)

と言ったように、生ける神の存在、その力を知ったからです。

すべての人は生ける神の存在、その力を知る必要があります。

聖書は言います。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

信仰者はこの世界に生ける神の存在、その力を知らしめる役割があります。

神の限界を自分で勝手に作らずに、信仰をもって祈りましょう!

1サムエル 17:41-49

「ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:47)

私たちは戦いの勝敗は、どのような武器を持っているかにかかっていると考えてしまいます。

剣と槍に対して、杖と5つの石と石投げでは勝負になるはずがないと考えてしまいます。

まさに、5千人の群衆を前にして5つのパンと二匹の魚で、「それが何になるでしょう」という状況です。

しかし、イエス様が5つのパンと二匹の魚で5千人を養われたように、少年ダビデは巨人ゴリヤテを倒しました。

少年ダビデの石が、ちょうど巨人ゴリヤテの額を撃ったのです。

主が武器に頼らずにご計画を実現なさるということ、神様のなさることは人間の企てとは無関係だということを学ぶのだ。」(LB)

たまごがない

ここのところ卵の値段が高くて驚いています。

高いだけでなく、商品自体が少なかったり購入する個数に制限がかかっていたり。

いままでは庶民の味方、一番身近にある栄養価の高い食べ物として我が家でも不動の地位を確立していたのに。

先日長男が帰ってきた折にオムライスを作ったのですが卵を2個使うか3個使うかで少し悩んでしまいました。

そんな中でのわたしなりの節約法の一つはパンを焼くことです。

卵も牛乳も使いませんがそれなりにパンらしくできます。

こういう状況にならなければここまでパン作りを継続することもなかったと思うので悪いことばかりではありません。

苦難や危機に直面した時にようやく、人は思いや視点を変え、重い腰をあげられるようになるのかもしれません。

混沌とした不安に満ちたいまの世界の中で、一人でも多くの人が神様の方へと視点を動かすことができることを心から願い祈っています。

主よ、あなたが必要です!

聖霊様、来てください!

と共に心を合わせ祈る教会でありたいと願います。

今週も神様の祝福と平安が豊かにありますように。
(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 17:28-40

「しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」(17:36)

ダビデの確信、それは、自分が羊飼いとしてライオンや熊を倒してきたという実績よりも、生ける神に対する信仰にありました。

ダビデは自分の力を過信していたわけではありません。

彼は自分がライオンや熊を倒すことができたのは、生ける神の力だったと認識していました。

ダビデは言います。

「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37節)

ダビデ自身、死の危険から救い出された経験をしてきたのだと思われます。

ダビデは自分自身に頼らず、生ける神に頼る者となっていました。

自分ではなく、私たちを救う生ける神を見上げることができますように。

今日は主の日。共に、生ける主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 17:12-27

「ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。」(17:23)

ダビデは父から兄たちの安否を確認するために戦地に遣わされただけでした。

ところがちょうどその時、ゴリヤテの言葉を聞きました。

そして、イスラエルの人々がゴリヤテを見て、彼の前から逃げ、非常に恐れていた姿を見ました。

ダビデには主の霊が激しく下って(16:13)いましたから、彼の反応は他の人たちとは異なっていました。

ダビデは言います。

「全く、生ける神様の軍をなぶりものにするなんて! いったい、あの、神様を知らないペリシテ人は何者ですか。」(26節LB)

使徒パウロも言いました。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

これが聖霊に満たされた人の生き方です。

1サムエル 17:1-11

「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」(17:11)

ペリシテ人の代表戦士、ゴリヤテは、身長二・七メートル以上、身につけたその武具は六八・五キロという桁外れたものでした。

しかし、イスラエルの民の一番の問題は、このペリシテ人の言葉を聞き、気をくじかれて非常に恐れていたことです。

彼らが聞くべきは、ペリシテ人のことばではなく、神のことばでした。

私たちも誰の言葉を聞いているでしょうか。

ゴリヤテのような目の前にある問題に集中し、その言葉にしか聞く耳がなければ、私たちは恐れにより失望するしかありません。

私たちが聞くべきは、ゴリヤテよりもさらに偉大な力ある神です。

神の御声に耳を傾けるならば、勇気が与えられ、希望が与えられます。

1サムエル 16:14-23

「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。」(16:23)

わざわいをもたらす、神の霊」(15節)

という表現は、矛盾して聞こえます。

これは、「わざわいの霊」も神の許可なく何もできないということです。

ダビデが竪琴を弾くときに、わざわいの霊が離れ去ったのは、主がダビデと共にいたからです。

主の霊がダビデの上に激しく下っていたからです。

神を愛するダビデの竪琴は、神への賛美だったと思われます。

信仰者が奏でる賛美には悪霊を追い出す力があります。

元気を回復する力があります。

日々の生活の中で賛美の歌を流すことは、霊的にも意味があることです。

1サムエル 16:1-13

「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」(16:7)

サウルのことで悲しんでいたサムエルに、新しい王に油を注ぐようにと神は命じます。

神のご計画は人の罪によって破綻することはありません。

ただ神の選びは人が求める人間像とは違います。

この世は、外見や能力、資格などを見ます。

しかし、神は心を見ます。

謙遜に、神を愛し、神のみこころを第一とする人を求めています。

この世界のすべての問題を解決する能力が求められているわけではありません。

ただ、神のみこころに生きようとするその心が求められています。

※ 今日は教会の暦では灰の水曜日。今日からイースター(復活祭)前日までの40日間(日曜日を除く)をレント(四旬節)と呼び、イエス様が十字架に至るまでの苦難の道を思い起こします。

1サムエル 15:24-35

「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」(15:35)

サウル王は

私は罪を犯しました。」(24節)

と口先では言いました。

しかし、悔い改めたわけではありませんでした。

彼は続けてこう言います。

兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い」。

つまり、サウル王は兵のせいにしたのです。

悪いのは自分ではなく兵だと。

さらにサウル王が気にしていたのは自分の体裁でした。

私が間違っていました。しかし、どうか今、民と指導者たちとの前で私の面目をつぶさないでください。」(30節LB)

そんなサウル王の姿を見て、サムエルは死ぬ日まで悲しみ、主も悔やまれたと言います。

聖書は言います。

あなたがお望みなのは、悔い改めて、くずおれたたましいです。ああ神よ。罪を深く後悔して砕かれた心にこそ、あなたは目を留めてくださるのです。」(詩51:7LB)

1サムエル 15:10-23

「サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15:22)

歴史的にこの十五章の重要性は、ヤハウェなる神と預言者サムエルが、どうしてサウル王を拒絶されたかが説明しているところにあります。

神学的には22節以下の「神に従うこと」と「神に捧げること」の価値を相対化させているところが重要です。

神の御言葉を自分勝手に解釈し、その真意を無視し、罪を犯したままでも神は見逃してくれるとは聖書は言いません。

神殿に行っていけにえを捧げたら罪は赦されるとは聖書は言いません。

聖書は、

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(1ヨハネ1:9)

人は自分の罪を認め、悔い改める必要があります。