甘酸っぱい

三〇㎝ほどの長さのあるロースハムの塊をいただきました。

ステーキのように焼いて食べるとおいしいということを聞き、ふと懐かしい料理を思い出しました。

それはマリサ先生がまだ日本にいたころ、時々作って下さった「ハムとパイナップルのステーキ」。

以前ここでも書いたようにわたしはリンゴ入りのポテトサラダや酢豚にパイナップルが入っているものはあまり好きではありません。

ハムとパイナップルという組み合わせもかなり抵抗があったのですが、マリサ先生がせっかく準備してくださった料理、えいっと一口食べてみて驚きました。

パイナップルの甘みと酸味、ハムの塩味が何とも良いバランスなのです。

そこにまろやかでコクのあるバターの風味も加わり、さらにパイナップルの酵素で柔らかくなったハムがそれはそれは美味しくて。

で、それを再現してみたくて木曜日のHOP支援会の昼食に作ってみました。

そのままだと全く接点のなさそうな二つの食材のシナジー効果に、まるで教会のようだと思わず笑ってしまいました。

聖霊様は、この中では質の良い発酵バターの役割かしらなどとひとり妄想しながら。

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 15:1-9

「サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。」(15:9)

旧約聖書を読む上で「聖絶」ほど難しい概念はないと思います。

それは、「神の審判」のもとにあり、それゆえに徹底的に破壊する、削除することが求められます。

この箇所では、これが単なる略奪行為の戦争ではないことを印象付けるために、戦利品を取ってはいけないと命じられました。

ところが、サウル王もその兵たちも、無価値なものだけを聖絶し、良いものは持ち帰ったとあります。

いつの時代も問題の根源にあるのは、自分たちの価値基準で物事を裁いてしてしまうことです。

神の目には無価値なものはありません。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 14:36-52

「民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。」(14:45)

サウル王の自分勝手な誓いのゆえに、息子ヨナタンは死を宣告されました。

しかし民は、

「今日の目ざましい働きは、神様に用いられている証拠ではありませんか。」(LB)

と反発し、ヨナタンを救いました。

神が共におられなかったら、こんなことは起こらなかったと。

「救った」と訳された単語は「贖う」という意味があります。

ヨナタンの代わりに動物を犠牲として捧げたという意味かもしれません。

いずれにせよ、王としての体面を守ろうとしたサウル王も、民の声には抗うことができませんでした。

1サムエル 14:24-35

「さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。」(14:24)

サウル王の無謀な断食命令が勝利を限定的なものとしてしまいました。

神のみこころを求めず、身勝手に自分の熱心さだけで、神を操ろうとする行為は、混乱をもたらします。

神の勝利は、人間の宗教的熱心によって引き出せるものではありません。

それは高慢以外の何ものでもありません。

サウル王の愚かな断食命令のゆえに、民は苦しみ、殊勲の息子のヨナタンも罪を犯したことになってしまいます。

謙遜に神のみこころを求め、神の命令に従う信仰こそ、私たちが求めるべき姿です。

1サムエル 14:1-23

「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」(14:6)

サウル王が直面していた現実、それは、ペリシテ人の海辺のように数多くの兵、戦車三万、騎兵六千に対して、自軍は六〇〇人。

しかし、サウルの息子ヨナタンにとっての現実は、状況よりも偉大な神でした。

実際、神は地震(15節)という超自然的な力でイスラエルの民を救いました。

「その日、主はイスラエルを救われた。」(23節)

人にはできないことも、神にできないことはありません。

私たちに求められていることは、偉大な神を信頼することです。

主は今も生きて働いておられます。

1サムエル 13:13-23

「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。」(13:14)

サウル王は「美しい若者」(9:2)で「民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(10:23)とあるように、外見は申し分ありませんでした。

しかし、「主が望んでおられるのは、ご自分に従う者」(LB)、その心が神の心と一致する者でした。

聖書のメッセージは一貫しています。

「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(2歴代誌16:9)

サウル王は信仰のテストに失敗しました。

神の命令を守るよりも、恐れに動かされてしまいました。

悔い改めるよりも、言い訳に終始しました。

神に信頼するよりも、人間的支援に頼りました。

神が求めているのは、神の心に生きる人(a man after his own heart)です。

1サムエル 13:1-12

「サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。」(13:11)

サウル王の失敗、それは、人しか見えなかったことでした。

「戦車三千、騎兵六千、それに浜辺の砂のようにひしめくほどの兵士たち」(LB)

に民は恐れ、隠れていました。

しかし、預言者サムエルは現れず、兵士たちはサウル王から離れそうでした。

サウル王は神のみこころを求めるのではなく、どのようにして統制が取れるかに心が向いていました。

そのため、彼は取り返しのつかない愚かなことをしてしまいます。

「人を恐れることは危険な罠ですが、主に頼れば安心です。」(箴言29:25LB)

1サムエル 12:16-25

「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。」(12:23)

預言者サムエルは、王が立てられた後も、民のために祈ることも、教えることも約束しました。

サムエルは自分の教えに耳を傾けずに王を求めた民に対して腹を立て、祈ることをやめることもできました。

どうせ耳を傾けないならばと、教えることをやめることもできました。

しかし、サムエルはそれは主の前に罪ある者となることだと言います。

つまり、サムエルが祈り続け、教え続ける理由は、神に対する恐れのゆえだと言います。

個人的な感情よりも、神を恐れ、神に仕えることを優先させることが神の民のあるべき姿です。

神のみこころを優先させる姿勢が大切です。

やよいひめ

イチゴが美味しい季節になりました。

次男が暮らしている千葉ニュータウンにある農産物直売所にはこのシーズン香りがいいぴかぴかのイチゴが一斉に売り出されます。

あまおう、とちおとめ、とちあいか、いばらキッス、紅ほっぺ、、、

そんな中で私の一押しは断然「やよいひめ」です。

色は朱色に近くどちらかといえば面長。

見た目は地味ないちごですが口に入れるとやわらかい果肉と共に甘さが一気に広がり、いくらでも食べられます。

この直売所2月から3月半ばまで、形が不ぞろいなものがかなりリーズナブルに購入できるのでTCUに行く用事ができると正直嬉しいのです!

そういえば初めてやよいひめを知ったのは次男の大学受験の日でした。

コロナ感染で世の中が不安と恐れでいっぱいだったあの頃、ダイヤモンド・プリンセス号が停泊している湾岸を抜けてTCUへ向かったあの日。

あれから丸三年が過ぎ、コロナに加えて戦争や大地震であの時以上に痛んでしまった世界の中で、どう歩んでいけばいいのか、イエス様だったらどうなさるだろうかと悩む日々。

主の祝福がわたしたちを通して流れることを切に祈りながら。 

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 12:1-15

「さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。」(12:7)

「説き明かそう」と訳された単語は、判事の前での訴訟または裁判を意味する司法用語です。

LBはこのように訳しています。

「さあ、主の前に静かに立ちなさい。先祖たちの時代からこのかた、主があなたがたに対してどれほどすばらしいみわざを行ってくださったか思い出させよう。」

個人的に、主がなされた恵みを数えることも大切なことですし、聖書の御言葉から、主がなされた恵みを数えることも大切なことです。

いずれにせよ、神の御業を思い起こすならば、神の尽きることのない信実に圧倒されます。

私たちは神の素晴らしい御業を思い出す時が必要です。

今日は主の日。共に、主の御業を思い出し、礼拝を捧げましょう。