1サムエル 31:1-13

「そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。」(31:12)

サウル王は、神に捨てられ、悲惨な最期を迎えました。

しかし、どんなに問題だらけであっても、サウル王は神に油注がれた者として敬意をもって葬られることになります。

勇士たちは立ち上がり、夜通し歩いて、サウル王と息子たちの死体を取り、運んできて、埋葬しました。

サウル王は在位中、不名誉な行為をしましたが、王としての立場は名誉あるものとして扱われました。

それは、神の油注ぎに対する敬意でした。

ですから、ダビデは彼を尊びました。

勇士たちも尊びました。

私たちも神を恐れ、すべての人を敬うことが求められています。

「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。」(1ペテロ2:17)

1サムエル 30:16-31

「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」」(30:23,24)

ダビデの部隊の二百人の者は疲れきって前進を断念しました。

ダビデと一緒に行って戦った四百人の中に、意地悪な人がいて、一緒に行かなかった人には戦勝品を分けることはできないと言いました。

すると、ダビデは神の恵みをそのように扱ってはいけないと注意します。

神の恵み、福音を理解しているならば公平な扱いをするものです。

イエス様は言われます。

「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

1サムエル 30:1-15

「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデたちは戦場を離れて、自分たちの本拠地に帰ってきました。

しかし、彼らが出陣していた間に、アマレク人が侵入し、彼らの街を焼き、家族は捕虜として連れ去られていました。

家族を失った兵たちの苦々しい思いはダビデに向かいました。

その時、ダビデは神を信頼することによって自らを力づけました。

自分の力ではもう先に進めないと感じる時があります。

ダビデは、自らの力ではなく、主によって自分自身を励ましたと言います。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)

主によって自分自身を励ましたダビデがまずしたこと、それは、自分がどうすべきか主に尋ね求めることでした。

聖書が教える失望への対処、それは、主によって自分自身を励まし、神のみこころを尋ね求めることです。

神は私たちを励まし、私たちを導かれます。

1サムエル 29:1-11

「ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」」(29:8)

二七章で、ダビデはサウル王が信用できず、イスラエルに敵対しているペリシテの地に行きました。

サウル王のダビデに対する敵意を知っていたペリシテの王はダビデを歓迎しました。

この時、ダビデが神に祈ったということは記されていないので、ダビデが自分の考えでそうしたことが分かります。

その結果、ダビデの人生は嘘に塗り固められ、自らを苦しめることになります。

その決定的なのが、神の民であるイスラエルと戦うために、ペリシテ人たちと一緒に出陣するということでした。

ダビデのジレンマは、何もすることなく解決しました。

ペリシテ人の領主たちがダビデを拒絶したのです。

ダビデの失敗にも関わらず、神が介入されました。

聖書は言います。

「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。」(2テモテ2:13)

キリストは私たちを見放すことも、見捨てることもありません。

1サムエル 28:15-25

「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(28:15)

エン・ドルの霊媒者、この箇所の解釈は二世紀の頃から難解とされてきました。

申命記18章にあるように、霊媒が実際にまやかしでないのかどうかは別にしても、聖書は明確に禁じています。

サウル王にとって最後の望みは神ではなく、自分に油を注いでくれた預言者サムエルでした。

「何が何だか分からない神より、人間のほうが具体的指示に富んでいる」と考えたのかもしれません。

私たちも気をつけないと、このような短絡的思考に陥ることがありえます。

聖書の中から、神が語られることを聞こうとするよりも、いわゆる『預言者』と呼ばれる人から、具体的指示を求めたくなると思います。

このエン・ドルの霊媒者が、ある意味、特別に用いられたように、その『預言者』と呼ばれる人物を特別に用いて語られるかもしれません。

しかしそれは『死のことば』です。

散り際

一週間私たちを楽しませてくれたアーモンドの花は今まさに散り際を迎えています。

決して数は多くありませんでしたが、本物に勝るものはありません。

よく見ると既に新芽があちこちから顔を出しています。

これもまた一興。

道路側のチューリップも次々にさきはじめました。

一気に開花が加速した川沿いのソメイヨシノも本当に綺麗です。

春は様々な変化が環境にも生活にも起こりますが、変わらない神様の愛と導きに信頼して新年度を迎えていきたいと思います。

 さて、今日の午後は賛美奉仕のための学び会を予定しています。

コロナの期間はなかなかこういう機会も持てませんでしたが少しづつ教会も日常を取り戻しつつあります。

当たり前ができる日々を感謝しつつ、この数年で傷んでしまった世界の中でのキリスト者の役割をそれぞれが遣わされる場所で果たしていくことができることを祈ります。

そして私たちのこの世での散り際が、希望の新芽を見ることができるものであればと思うのです。

必ず訪れる人生の散り際を意識して、今週も一日一日を大切に歩んでいきましょう!

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 28:1-14

「ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いた。サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。」(28:4)

「シュネムに来て陣を敷いた」という意味は、イスラエルの国の中心部まで迫っていたということです。

サウルが陣を敷いたギルボアは高地で、ペリシテ人の陣を敷いたシュネムは平地、その距離歩いて二時間ほど、サウルはペリシテの大軍勢を一望することができました。

どうして、そこまで簡単に侵入することができたのか、理由は明白です。

サウルは間違った敵と戦うことに時間を費やしてしまったからです。

サウルはねたみのゆえにダビデを追いかけていたからです。

それで、本物の敵がやってきた時、準備ができていなかったのです。

同じことが、私たちにも起こります。

「戦う相手を間違っていないか?」私たちは、常に気にする必要があります。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の第二礼拝はゴスペルピアニストの米田香さんの特別賛美があります。

1サムエル 27:1-12

「ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」」(27:1)

ダビデはサウル王が信用できず、イスラエルに敵対しているペリシテ人の地に行きました。

サウル王のダビデに対する敵意を知っていたペリシテ人の王はダビデを歓迎しました。

ダビデが神に祈ったということは記されていないので、ダビデが自分の考えで行ったことが分かります。

その結果、ダビデの人生は嘘に塗り固められ、自らを苦しめることになります。

神から遠ざかっている5つの警告サインという記事がありました。

一、祈ることをやめる。

二、聖書の学びをやめる。

三、神に不満や怒りを感じる。

四、教会に行かなくなり、神を礼拝しなくなる。

五、福音に鈍感になる。

当てはまることがあれば主に立ち返りましょう!

1サムエル 26:13-25

「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。」(26:23)

ダビデは自らの手で王座を奪うことはありませんでした。

神がダビデを選ばれたのであれば、神がどんな方法であってもダビデを王座に着かせることを私たちはこのことから学びます。

イエス様は言われました。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5:5)

柔和な者はダビデのように力を抑制し、神の時(タイミング)を待つ人です。

忍耐をもって十分に学んだならば、神の時に、何をすればいいか、どこに行けばいいか、何を言えばいいか神が教えてくださいます。

1サムエル 26:1-12

「ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」」(26:9)

ダビデは、神の油注ぎを軽く考えることはありませんでした。

それは、神の権威に対する健全な恐れであり、神の選びに対する敬意でもありました。

それは、また、神の主権に対する信頼でもありました。

ですからダビデは言います。

主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。」(10節)

ヤコブが

私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ3:1)

と言うように、主に油注がれた方を裁くのは主ご自身です。

ですから、ダビデがそうしたように神の油注ぎを軽視しないことが大切です。

それで、聖書もこのように言います。

牧師を選ぶ時は慎重にしなさい。そうでないと、その人の罪を見のがす結果になり、あなたもその罪を黙認したことになるからです。」(1テモテ5:22LB)