1サムエル 25:36-44

「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」」(25:39)

ナバルはダビデを侮辱しましたが、ゴリアテのような戦士ではありませんでした。

しかし、ダビデはゴリアテに対するかのように剣を帯び、復讐しようとしました。

ダビデは自分のことでいっぱいで、神が入る隙間もありませんでした。

そんなダビデにアビガイルは神の存在を思い起こさせました。

私たちが自分のことでいっぱいになっていて、大きな過ちを犯してしまう前に、神はアビガイルのような存在を遣わされます。

そして、私たちがその助言を聞いて、怒りや憎しみ、苦い思いを手放して神に立ち返るならば、神がすべてのことを美しくしてくださることを体験することになります。

1サムエル 25:23-35

「理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(25:31)

アビガイルの言葉は気配りに満ちた知恵の傑作でした。

ダビデが聞く耳がない、誰も話しかけることができない存在でなかったということかもしれません。

ダビデは彼女に言います。

今日、あなたを私に会わせるためによこしてくださった、イスラエルの神、主に感謝しよう。全くりっぱな良識を備えた人だ。私を人殺しの罪から守り、自分の手で復讐しようとしていたのを思いとどまらせてくれてありがとう。」(32,33節LB)

もし、ダビデが自分の手で復讐をしていたら大きな問題でした。

聖書は言います。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」(ローマ12:19)

1サムエル 25:14-22

「今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」(25:17)

ナバルはまさに「裸の王様」でした。

彼の使用人の一人は、賢明な女主人、アビガイルに言います。

だんな様はあのとおり頑固な方ですから、だれもおいさめできないのです。」(LB)

誰も話しかけることもできないようなリーダーであれば、そのグループに災いが及ぶことは必至です。

キリスト者の完全は、自分一人でという完全ではありません。

自分の欠けを認めて、互いに愛し合うことによってもたらされる完全です。

だから聖書は言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)

咲いた!

まだかなまだかなー

学研のおばさんまだかなー♪

昔聞いたことのあるコマーシャルの歌のようにアーモンドの花が咲くことを心待ちにしていた先週水曜日、とうとうその「時」はやってきました。

桜より少し大きなピンク色の花びらが一気に開いたのです。

いまのところまだ二輪だけですが人生で初めて見るアーモンドの花に大興奮です。

アロンの杖にアーモンドの花が咲いたと言う聖書箇所を思い出しながら聖書の世界を追体験しています。

でも、、、純子姉が見たらどんな反応をしてくれたかなあ、、、。

少しずつソメイヨシノが咲き始めた富岡公園を車で通りながら、なんだかすごく寂しくなってしまいました。

今年の桜はもう一緒に見れないんですね。

毎年ラザロ霊園での墓前礼拝に一緒に行っていたのに、今年からはいないんですね。

春を心待ちにしていたのに春が来ると寂しく感じるなんて思いもしませんでした。

満開の桜を一緒に見上げ、神様の素晴らしさに共に感動した在りし日の純子姉の笑顔をしみじみと思い出しています。

今週も一日一日を大切に歩んでいくことが出来ますように。

 (小山晶子牧師夫人)

1サムエル 25:1-13

「ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。」(25:8)

この箇所は、ダビデとその仲間たちの逃亡生活の様子が描かれています。

彼らはナバルのような裕福な人たちの支援で生活の糧を得ていました。

それが簡単なことではなかったことが分かります。

「祝いの日に来た」というのは、祭りの日に物を分け合う習慣が十分に確立していたので、ダビデの要望に合理性があったということです。

ナバルの問題は、自分の努力で裕福となったという自負からか、貧しさの中にいる人たちを見下し、もてなす心がなかったということです。

イエス様は自分のことしか考えない金持ちの裁きのたとえを語り、言われました。

自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:21)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 24:16-22

「人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか。おまえが今日、私にしてくれたことの報いとして、主がおまえに幸いを与えられるように。」(24:19)

サウル王はダビデの一連の行動に感動し、泣きました。

サウル王の言葉が真摯なものでなかったと考える必要はないと思います。

彼は心からそう思ったと思います。

問題は、彼は自分の言葉を守ることができなかったということです。

神と共に歩むことを拒絶したサウル王は、結局罪の誘惑に引きずられてしまいます。

イエス様は言われました。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

私たちはそのことを謙虚に認めて、助け主、聖霊の力を求める必要があります。

1サムエル 24:1-15

「彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」」(24:6)

ダビデは自分の命を狙うサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。

しかし、ダビデはそうしませんでした。

『砕かれた心の輝き(三人の王の話)』(あめんどう)という本の中で、その理由をダビデはこう語ります。

「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」

サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

人の言葉ではなく、神を恐れ行動する者が、洞窟からぬけ出すことができます。

1サムエル 23:15-29

「サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。」(23:28)

サウル王とその部下たちは、ダビデたちをほぼ包囲していました。

サウル王とダビデは、同じ山の一方の側とその反対側を進むほどに近づいていました。

しかし、その時、使者がペリシテの攻撃を知らせたため、サウル王は追跡を中止せざるを得なくなりました。

ダビデたちを守ったその岩山は「仕切りの岩山」と呼ばれました。

神が助けてくださったことを覚えることは大切です。

使徒パウロも言います。

私たちは非常に激しい迫害を受け、打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。死を覚悟し、自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。死者を復活させることさえできるお方なのですから。やはり、神様は私たちを助け、恐ろしい死の危険から救い出してくださいました。これからも、何度でも、救い出してくださるに違いありません。」(1コリ1:8-10LB)

1サムエル 23:1-14

「ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」(23:14)

ダビデは、自分たちのいのちをかけてペリシテ人と戦い、ケイラの人々を救いました。

その知らせを聞いたサウル王がダビデを捕まえにケイラに来ることになりました。

常識的に考えると、自分たちを救った英雄を裏切るようなことはしないと思ってしまいます。

ダビデの賢かったことは、たとえそう見える状況であっても神に尋ね求めたということです。

祈り求める必要がないほど答えが明白な時ほど、私たちは気をつける必要があります。

自分で勝手に結論づけずに、たとえ順調に見えても、常に主に祈り、主の御言葉を待ち望む姿勢が大切です。

ここに、

サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。

理由を垣間見ることができます。

1サムエル 22:11-23

「ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。」(22:22)

サウル王の「主の祭司たちを殺せ。」という命令に、王の家来たちは従いませんでした。

なぜなら、神を恐れたからです。

しかし、神を恐れないエドム人ドエグは平気で祭司たちに討ちかかりました。

そもそも、サウル王が主の祭司に猜疑心を抱いたのは、神を恐れないエドム人ドエグからの進言でした。

サウル王は、神を恐れる祭司の言葉よりも、神を恐れないエドム人ドエグの言葉を信頼しました。

その結果、主の祭司たちを虐殺するという愚かな決断をしてしまいます。

誰の言葉を信頼するか、私たちは気をつける必要があります。

猜疑心を与えようとする言葉は注意する必要があります。